「私ね、奈良の生まれなの。大学の時にこっちに出てきて、本当は卒業したら帰るはずだったんだけど…」
 そう喋ってから、彼女は少し考え込んだ。
 ぼくはその間に次の話題を探す。
 彼女に合いそうな話題──話題と。
「君はラーメン好き?」
「ええ、好きよ」
「ラーメンにコショウは入れる?」
「うーん…」
 ちょっと眉をひそめる。
 その仕草がちょっと微笑ましい。
「あまり好きじゃないわ。七味とかもあまり食べ物に入れないほうなの」
「へえ、そうなんだ。でも刺激物って身体にいいんだよ」
「あら、そうなの?」
 彼女は目を丸くした。
 その顔もまたいい。
「それでもね。やっぱり入れすぎはよくないんだ。だけどぼくの知り合いにコショウを思いっきり入れるヤツがいてね」
「あら、どれくらい?」
「一本全部」
「ええっ?」
 大仰に驚く彼女。
「やっぱりおかしいだろ?」
「うん、おかしい。というか、それ変」
「………」
(やったぞ)
 ぼくは心の中でガッツポーズ。
 まるで春のそよ風みたいな微笑にぼくは有頂天になった。
 彼女は絶対笑ったほうがいい。
 まだぎこちない笑顔だけど、きっと満面の笑顔を見せたら素敵だろうに。
 さて。
 どうすれば彼女をもっと笑わせることができるのだろう。
(あ…)
 ぼくは落胆した。
 せっかく笑ってくれた彼女の表情が、またしても元に戻ってしまったからだ。
 ため息をつき、ぼくは目の前に座る彼女の端正な顔立ちを見つめた。
 真っ直ぐな髪をきちんと肩のところでカットし、賢そうな額を出している。
 顔はほっそりとしているが、身体つきはそれほどギスギスしているわけではない。とはいえ、太ってるわけではなく、まあ均整の取れた体型。
 そんなにすごく美人というわけじゃない。けれど、彼女のどこか淋しそうで儚げな表情は、なぜか妙に惹かれる。
(それにしても…)
 彼女とこんな風に日曜の午後のひととき、しゃれた喫茶店でお茶を飲むことになろうとは。
 この間まで思いもよらなかったことだ。
「………」
 ぼくは、自分の前に置かれたカップの中のコーヒーに視線を移した。
 その動かぬこげ茶色したものを見つめていたら、無性に居たたまれぬ気持ちになってきた。
 思い余って顔を上げる。
「あの…っ」
「なに?」
「………」
 小首を傾げた彼女の表情。
 ぼくは一瞬ためらったが、それでも言葉を続けた。
「ぼくのこと、何も聞かないんだね?」
 なんだか少し惨めな気持ち──
 そういえば、よくそんな気持ちになったよな。
 いつだったか、ええと、あれは誰だったっけ。
 ──あなたの話ってつまんなーい──
 そう。
 そんなこと言った人がいた。
 陽気でかわいくて、とにかく昔のぼくなら絶対近寄ろうとはしなかった、そんな女性。
 自分のことばかり話してたよな、あの子って。
 ぼくが何か喋ろうとするとすぐ遮って。
でもこの娘は違う。ぼくを気遣ってくれているのがわかるから。
「だって、言いたくないのかなって。聞いちゃまずいのかなって……」
 少し考えてから彼女は続けた。
「じゃあたくさん聞いちゃう。まず第一問、田舎はどこなの?」
「………」
 ぼくは黙って彼女の表情を探る。
 いつのまにか、ぼくはこの会話の先を見守るようになっていた。
 さあ、どうなるんだろう、ぼくらは。
 ただの社交辞令で終わるのかな。
(何をバカなことを……)
 ぼくだって社交辞令的な会話ばかりしてるじゃないか。
 彼女に誠を求めるなんて、ずうずうしいことこの上ない。
 だが───
 なぜだろう。
 ぼくは今、どうしても彼女を笑わせたいと思い始めてる。
 決して暗いという感じの人ではないが、とても快活というわけでもない。
 なんだか無理に明るくしようとしている感じがするんだけど。
 時折見せるちょっと淋しそうな表情が───
 とても気になる。
 どこかで見たことのある、そんな郷愁を感じさせる。
 だからか、いつの間にか彼女と初めて出会ったときのことを思い出していた。



 その日、ぼくはこの喫茶店で軽く食事をしていた。
 よく利用しているのだけど、その日はお昼にしては人が少なかった。
 朝からあまり気分がよくなかったので、軽く食べるつもりでサンドイッチとコーヒーを頼んだ。
 だけどやはり向かず、ひとかじりしただけでほとんど手つかずの皿を前に、沈んだ気持ちでコーヒーを飲んでいた。
「………」
 そんなとき、誰かの視線を感じ、ぼくは顔を上げた。
 店の隅、窓際の席に彼女がいた。
 逆光ではっきりとした表情は読み取れなかったんだけど、なぜか彼女がこちらを見つめているのを感じた。
 それが最初だった。
 それから時々お昼にそこに行くと彼女がいた。
 ぼくの思い込みが激しいんだろうか。こんなこと誰かに聞いてみる訳にもいかない。
 会社の同僚たちに話したら、きっと馬鹿にされるに決まっているし。
 いつだったか、ちょっと気になる女の子ができたと話したら、しっちゃかめっちゃかに茶化してくれたものだ。
(彼女は妙に気になるんだよな……)
 ぼくは、懐かしさを感じる彼女のその雰囲気に、とても興味がわいた。
 今日は雨の日曜。この店の前を通りすぎようとすると、彼女がいた。
 中は学生や主婦たちでいっぱいだった。
 無意識にぼくは喫茶店の中に入っていた。
「相席いいですか?」
 ぼくは彼女に話しかけたのだ。



「どうしたの?」
「え?」
「なんかまずいこと聞いたかしら? さっきから黙ってしまっちゃったから…」
「ああ……ごめん」
 つい回想にふけってしまっていた。
 ほんのちょっとのためらいを感じてる。
 ぼくは彼女の顔をじっと見つめた。
 彼女はいつも穏やかな表情を浮かべて、静かにぼくの話を聞いてくれる。
 それは確かに嬉しいことだ。
 だけど───
「あのさ」
「え、何?」
「こんなこと聞いて変なヤツって思うかもしれないけれど…」
「あら、何かしら?」
 ぼくの意味深な言葉に、興味を持ったのだろうか、彼女の表情が少し変わった。好奇心からとでもいうような。
「君って、この店に前からいつも来てた?」
「え?」
「最初に君をここで見かけた時……」
 ちょっとのためらい。
 やっぱり少し勇気がいる。
 でも、ぼくは思いきって言ってみる。
「君がぼくのことを見てたような気がするんだ」
 言えた。
 心臓がバクバクしている。
 む…まるで中学生の恋のようだ。
「…………」
 彼女は黙っている。
 ぼくはそんな彼女の表情を探る。
 癖なんだろうか。彼女は右手の親指と人差し指で下唇をつまんで何か考えるような仕草をしている。目線は自分のカップに向けて。
「ええとね…なんていうか……」
 ぼくがしどろもどろに何か言おうとした時。
「あのね、私……」
 はっとした。
 いつのまにか彼女がぼくの顔を正面から見つめていた。
「私、あなたが私のことを見つめていたと思っていたの」
「え…?」
 ぼくは驚いた。
「あの日……」
 彼女は少し低い声で淡々と喋りだした。
「私、ちょっといやなことがあってナーバスになってたの。そうね……人間関係……とても個人的な……で、ここの前を通りかかったら……」
 彼女はふっと横を向き、ガラスの向こうの通りに視線を向けた。
「お昼時だったのよね」
 ぼくは、おやっと思った。
 彼女の声に自虐的とも、恥じらいともいえない、なんともいえない響きをを感じたのだ。
 そして、それはすぐわかった。
「いい香りがしてきて……お腹が鳴ったの。で、ガラス越しに店内を見たら…誰か男の人がサンドイッチを目の前にしてコーヒーを飲んでたのよね」
「あ…それって…」
 ぼくがそう言うと、彼女は頷いた。
「人間って不思議よね。悩んでても死にそうでも……お腹はすくんだわ」
 ほんの少し、彼女の口元に笑みが浮かんだ。
 ぼくを見つめる目は優しい。
「で、私もサンドイッチを頼んだの。あ、飲み物はコーヒーじゃなくてカフェオレだったけど……そしたらね、しばらくしたら視線を感じたの……それがあなた」
 そうだったのか。
 やはりぼくの妄想だったのだ。
(…………)
 今頃になって、ぼくは身体中がカーッと熱くなってきだした。
 ぼくのことを見ていた───?
 何て恥ずかしいことを言ってしまったんだ。だが───
「もしかしたら、私のこと変なやつだと思ってたんじゃない?」
「そっ、そんなことないよ!」
 ガタンとテーブルが大きな音を立て、周りの人たちの視線が向けられた。
 しかし、すぐに何事もなかったかのように自分たちのお喋りに戻る人々。
 ぼくは、そんな都会人の気質を、こんなときほどありがたいと思ったことはなかった。
「あら、安心したわ。よく変わった女って言われるのよね、私」
「そんなことないよ」
「ありがと」
 彼女は口の端をキュッと上げてそう言い、続けた。
「で、なんか感じがいいし、サンドイッチも美味しいし。時々ここに来るようになったの。そしたらあなたがいつもいたのよね」
「…あ、うん…そうなるね……」
 彼女の目じりに微かなシワがよる。
 落ち着いた微笑み。
 ぼくはもう一度じっくりと彼女の顔を見つめた。
 ほっそりした顔───小娘というほどに若いわけではない、落ちついた表情の彼女が、あるいは満面の笑みを浮かべたら。
 どんなふうになるだろうか。
 歳よりもっと若く見えるだろうか。
 声を立てて笑うってことあるんだろうか。
 どんな笑い声なんだろう。
 その時───
 ぼくの心にゆらゆらと浮かんできた気持ち。
 なぜかは分からない。
 今までのように下手なジョークで笑わせようとか、おもしろおかしく友人や自身の失敗談を話そうとか、そういうのとは違う、もっと別の話。



「そうだ。さっきの質問の続き。君の田舎って奈良だったよね」
「ええ、そうだけど?」
「じゃあこれ知ってる? 奈良の語源って」
「奈良の語源?」
 彼女はちょっと小首を傾げ、そして首を振った。
「知らないわ」
「朝鮮語で『国』のこと『ナラ』というんだ」
「朝鮮語?」
 彼女は不思議そうな顔をする。
 どうしてそんな話を──とでも言いたげに。
 ぼくは話を続けた。
「そこからつけられたという話らしいんだけど、真偽のほどはわからない」
「へーそうなんだ。初めて聞くわ」
 そう。確かに本当なのか嘘なのかはわからない。恐らく正しい話ではないのかなと今のぼくは思う。
 けれど、一時期は本気で信じていたこともあったのだ。
 そんなことを多少恥じているぼくだが、それでもぼくは自分のルーツである国に誇りを持っている事は間違いない。
「ぼくね…在日朝鮮人なんだよ」
「え…、韓国の方なの?」
 彼女の表情を探る。
 ちょっと驚いたような表情が浮かぶ。
 嫌な感じはない。
 だが、今まで彼女に感じていたものとは違うものは感じられないか。
 憐れみのようなもの、日本人ではないといった嫌悪めいたもの、あるいは好奇の目、そういったものを感じないか。今までに浴びてきた何かを。
 だが、やはり少し驚き、不思議そうな視線を向けているだけの彼女──穏やかな───
「いや、韓国人じゃないんだ。在日朝鮮人。何が違うかって話せば長くなるけど、要は国籍が違うんだ」
 今まで付き合ってきた女性に、自分が在日朝鮮人であって、本当は日本人ではないと正直に話してきたぼくである。
 それだけ朝鮮人であるという誇りは失いたくないと思っていたからだ。
 だが───
 ほとんどの人が好意的ではあったけれど、それ以降なぜか腫れ物を触るような感じでぼくに接するようになった──と思う。
 はっきり彼女たちに問うたわけではないのでわからないが。
(なんだか……)
 彼女は違うとなぜか思った。
 何が違うとか、何か根拠があるとか、それさえもわからないのだけど、彼女の穏やかな笑みにぼくは何か──そう運命的なものを感じていた。
 そして思った。
 無性にぼくのことを聞いてもらいたい。
 ぼくの過去のすべてを。
 辿ってきた道のりを。
 何もかもすべて。
 彼女はきっとわかってくれる。
 今までのようなことはない───そんな確信めいた気持ちが渦巻いて。
 だから話し始めた。
 彼女に。



「ぼくの通った学校のね、黒板の上には肖像画がふたつ並んで飾ってあったんだ」
 ぼくは話が重くならないように、できるだけ注意した。
「それはね。ぼくらにとってはとっても大切なもので、たとえば火事とかになった場合、真っ先に抱えて逃げなくちゃならないんだ。変でしょ?」
 さっきまですいていたのに、いつのまにか喫茶店内がこんできている。
 喧騒にひるむように、ぼくの気持ちが揺れ動く。
 すると彼女は首を振った。静かに、ゆっくりと。
 余計なことは言わずに首を振る彼女に、安心するぼく。
「こんできちゃったね」
「そうね」
「うるさくない?」
「そんなことないわ」
「………」
「お話の続き、聞かせて」
 ぼくははっとして顔を上げた。
 でも、彼女は相変わらず穏やかな表情。
 ぼくは、なぜか気恥ずかしくなって顔を下に向ける。
 目の前にはこげ茶色の飲み物が依然としてあり、それはすっかり冷えてしまった。さっきまで立ち上っていたいい香りももうしない。


 ふっと彼女の前にあるカフェオレに目をやると、それも半分くらいなくなっていた。
「雨あがんないかなー」
「天気予報、なんではずれなかったのよー」
 うしろに座る女子高生たちの話が突然耳に飛び込んできた。
 ぼくはそっとガラス越しに、どんよりとした空を見つめた。
(この雨はいつまで降るのかな。雨がやんだら彼女はどうするんだろう?)
 なんてことを考えてる。
 今までに付き合ってきた女の子たちも、話してる最中にふっと考え込んでしまうぼくにイライラしたもんだった。
 ぼくは、前に座る彼女にそろりと視線を戻した。
「…………」
 彼女はちっともイライラしたような顔をしていなかった。
 ほっとすると同時に、なぜだろう。ぼくの心に浮かんできた、ちょっとした悪戯心。
 だから、いつもならあまり話題にしない「あのこと」も、笑い話としてつい言ってしまいたくなった。
「あのね。実はね。ぼくバツイチなんだ」
 バツイチ──ほんとはそんな言葉は好きじゃない。
 でも、なぜかついて出たその言葉。
 日本語にも好きな言葉と嫌いな言葉がある。
 この言葉は嫌いな言葉だった。
 だけど───
 そんな、とっておきの話だったのに、やっぱり彼女は変わらない。
 ぼくはちょっとむきになった。
 弾丸のように喋り出す。
「ぼくは朝鮮人であることに誇りを持っているよ。だけどね、通った学校の教育方針はなぜかなじめなかったんだ。だから高校は日本の学校に入ったんだ」
 ぼくはそこで一息ついた。
 すると、突然彼女が聞いてきた。
「中学までは……その、朝鮮学校で勉強して、高校は普通の日本の学校に?」
「そう。朝鮮学校から日本学校に行くって結構大変だったんだよ」
 ぼくはそう答え、なんでもないことのようににっこり笑った。
 同情はされたくない。
 彼女はぼくの気持ちがわかったのか、ゆっくり頷いてくれた。
 そして、ぼくは話を続ける。
「で、高校でぼくは一人の先輩と出会った。それが別れた前の奥さん」
 ぼくらは高校卒業後、そのままゴールイン。二人とも大学生だったから学生結婚した。だけど───
「その結婚も長くは続かなかった。5年で別れちゃったんだ」
 何が災いしたのだろう。
 今でもわからない。
 でも、ぼくに原因があったと思う。
 ぼくが在日朝鮮人であることは承知して結婚したはずだけど、ときおり出てくる民族意識が鼻についたのかもしれないし。詳しくは分からない。
 別れてから、いろいろな女性と付き合った。
 それはみんな日本の人。
 なぜか好きになるのは日本人女性。
 同じ民族を、別に避けてたというわけじゃない。
 ただ、普通のサラリーマンをしてたら、やっぱり自然と日本人とばかり付き合うことにもなるし。
「でも、ぼくは日本人、好きだよ……」
 そんなふうに次から次へとぼくは喋りつづけた。



 どれくらい時が移っただろう。
 ふと気づくと、再び店内は人がまばらになり、後ろに座っていた女子高生もいなくなっていた。
(……なんだか疲れたな)
 軽く疲労を感じてる。
 最近、ぼくは疲れを感じたりすると、ふっと故郷を思い出すようになった。
 ちょっと前までは全然思い出しもしなかったのに、もう若くはないっていう証拠なんだろうか。
 そして、無意識のうちに口をついて出る。
「いつか自分の田舎に帰って…」
「………」
 その時、彼女が身じろいだ。
 それに気づきながら、だけど、ぼくの口は止まらない。
「毎日堤防を歩きたいなあ」
 どうしたことだろう。
 こんなことまで話すつもりはなかったのに。
 でも止まらない。
「生まれた町。ぼくが育った町。それらを心ゆくまで眺めたい」
 そんな時、誰か───ぼくは思う。
「そんな時、誰か隣にいてくれたらいい。一人じゃ嫌だよなあ」
 ぽつり。
 言うつもりはなかった。
 ただ心で呟くつもりが、ぽつりと。
 なんだか、まるでプロポーズしてるみたいなこの言葉。
 いや、まるっきりそうなんだけど。
「そうね。一人よりは二人がいいわよね」
「!」
 ぼくはおそるおそる彼女を見つめた。
 彼女はさっきと同じ表情で、ぼくを見返していた。
 が、しかし───
 彼女の顔に満面の微笑が浮かんでいた。
 思った通りの素敵な笑顔。でも───
(この表情……どこかで見たことのある……)
 その時、ガラスの向こうで空が晴れた。
 ぼくと彼女の顔を、茜色へと染め上げる。
(ああ……)
 まるでデジャヴ───
 何だろう?
 よく分からないけど、暖かくて時間がゆっくり流れて。
 ぼくは小さな頃、よく堤防の草むらで寝転がってずっと空を見ていた。
 白い雲が連なって、大きな絵を描いているようだった。
 その頃、ぼくは自分が朝鮮人だとは知らず。
 祖母がいて両親がいて毎日が同じことの繰り返しで。
 だけどそれが幸せで、心はいつも満たされて。
 日本に住んでいるのだから当たり前に日本人だと思っていた。
 年を取るにつれいろんなことを知って、自分で道を選択するようになった。
 ぼくはたくさんのことを得ては失ってきた。
 自分が朝鮮人であるということは、正直ただのアイテムでしかなくなっていた。
 だけど、それを失う勇気は無かった。
 結局ぼくは朝鮮人から逃げられなくて、だけど日本からも逃げられなくて。
 目の前にいる君。
 多分同じ空気のする日本人。
 きっと空が好きで、小さな時雲を追いかけて来たんだろう。



「よかった…」
 彼女の声で我に返る。
 ぼくは、またしても自分の世界に入りこんでいたようだ。
「よかった。あなたがここにいて」
 彼女はそう言って微笑んだ。
「え?」
 思ってもみない彼女の言葉にどう答えていいか分からない。
 でも、本当になんて素敵な表情なんだろう。
 彼女はそのまま話を続けた。
「ねえ、私今日は暇なの。夕焼け見るの付き合ってくれる?」
 そしてやっとぼくは答えるべき言葉を見つけた。
「じゃ、散歩しようか」
「うん、散歩しながら、韓国人と朝鮮人の違い、教えてよ」
「あはは。いいよ」


 ぼくらの微笑はここから始まった。



──我が友に捧げる


画像提供/空色地図 -sorairo no chizu-

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