彼女は丘の上の白い家に住んでいた。
辺りには鬱蒼と木々が生い茂り、ほんの数十メートル離れた場所に神社が建っている。二階に通じる階段の突き当たりの小さな明かり取り用の窓から、西の空が臨め、遠くに見えるゴミ焼き場の煙突から煙が立ち登っている。 彼女はその窓に手を掛け、飽かずそれを眺めていた。彼女の背丈と同じ高さにそれはあり、丁度顔が覗かせるようになっていた。 青々とした松が煙突を隈取り、あたかも一幅の絵のようにそこに存在していた。 ふと彼女の目が一軒の家を捉えた。彼女の家から百メートルほど北寄りにその平屋はあった。 今まで無表情だった彼女の顔に微かな変化が現れた。微笑んでいる。 彼女の瞳はその家を見ているようで、実はそこに映っていないものを見ていたのだ。 庭で毬突きををする少女。それを見つめるまだ子供の頃の彼女。彼女が手を振ると少女も手を振り返す。何もかも優しかった遠い日の幻影。 だが彼女のその幸せそうな微笑みはどこか病的だった。 「ほら、九条さんちの娘さんが、まあた外眺めてるよ」 「ほんにええ子じゃったになあ。何が災いしたのか」 嫁と姑であろう、一人の中年の女と老婆が隣の家の庭先から彼女のことをこっそり見ながらヒソヒソ話している。 白い壁の家に住むその彼女は二十歳になるほっそりとした女性だった。 九条天子。 彼女の祖父が時の天皇の熱烈な信奉者で、天皇のような有名な学者になることを願って付けた名前だった。その祖父も彼女が小学生の時に亡くなり、結局彼女は大学に進まず高校卒業後、普通の会社に就職をした。 九条家は市内でも有名な大地主だった。天子の祖父である九条大蔵はそんな裕福な家庭に生まれ、長男でこの九条家を継ぎ、九条の資産で事業を起こしたのだが、これが無類の浪費家だった。天子の父親である大蔵の六番目の末っ子、由紀夫が妻を娶って分家になり家を出ていった頃からだんだんと事業が傾き始めた。それは大蔵の浪費癖と経営者に向かない性質から起こった悲劇と言えよう。 そしてついに天子が生まれた年、九条家は倒産した。資財を全部投げ売って借金にあて大きな屋敷も手放してしまい、大蔵と妻、そして長男夫婦は唯一残った小さな土地に長屋のような汚らしい家を自分たちで建て、そこに住むようになった。 大蔵には一緒に住んでいる長男の上に一番年が上の長女がいた。彼女は県外に嫁に行っており、この大蔵とは昔から確執があった。彼女が結婚をする時に大反対をしたのが、父、大蔵だったのだ。 そういう事で、駆け落ち同然に家を出ている彼女は父親が落ちぶれてしまっても帰ってくることは全く無かった。他の兄弟たちもそれぞれ遠くの土地に分家を構えて、好き勝手にしていたので九条家は昔から既に皆、バラバラ状態だったのだ。 大蔵の末息子、由紀夫は自分の父親に似たのかこれがまた無類のギャンブル好きで、天子が生まれるまでは定職にも就かず毎日毎日パチンコ通いをしていた。その妻、慶子は収入が全く入らないためにいつも実家の母親に無心に走らなくてはならなかった。そうこうしているうちに天子が生まれたが、可愛がるだけでまだ職に就こうとしない夫を見限り、慶子は家を出、実家に帰ってしまった。 由紀夫は妻と子供に家を出ていかれ、ようやく目が覚めた。慶子の実家まで彼女を追いかけ、どうか戻ってきてほしいと土下座して謝った。そんな姿を見た彼女はもう一度この人とやり直してみようと決心する。 それから由紀夫は人が変わったように仕事をするようになり、最初は一軒一間の汚い貸家だったのが天子が小学五年生の時に、小高く見はらしいのいい高台に、こじんまりしてはいるが自分たちのマイホームを建てることが出来たのであった。 大蔵は事業に失敗し、すっかり老け込んでしまっていた。あの後、暫くして妻にも先立たれ、それがショックでもあったらしい。 家にいても長男夫婦はそんな大蔵に冷たく当たり、彼には自分のいる場所がまったく無かった。そこで毎日のように由紀夫の家に入り浸るようになったのである。 しかし、由紀夫と大蔵の間には諍いが絶えなかった。息子はいつまでも父親の失敗を責め、父親は息子をなまくら者だと罵った。 天子はそんな場面をいつも見てきた。祖父が来ると、子供部屋に閉じこもり、頭から布団を被った。彼女の逃げ込むその部屋は、一間しかない部屋の隣の縁側に自分の父親が日曜大工して作ってくれた部屋だった。 それでも二人の争う声が聞こえ、耳を塞いだ上にその手を動かし耳元をわんわん言わせて、外部の音が一切入らないようにまでして彼女はたえた。 (もう止めて!) と、幾度となく彼女は思ったことか。それを口に出せたら、どんなに楽になるだろうとも。 だが、彼女にはその勇気が無かった。だからこうしてジッと嵐が過ぎるのを待つしかなかったのだ。 そうして時は移り、彼女が五年生に上がる頃から大蔵は足腰が立たなくなり、まるっきりの寝たきりにまでなってしまった。 最初の頃は毎日のように由紀夫に電話をかけてきていた大蔵であった。昼間は仕事に出ているのでもっぱら話の相手をするのは妻の慶子だった。長男夫婦がご飯を食べさせてくれない、と言うので慶子は毎日のようににぎり飯などを届けてやった。 大蔵の部屋は玄関を入った直ぐ横の長男夫婦の部屋の奥にあり、なんと驚いたことに、息子たちの部屋と大蔵の部屋を仕切る襖が目張りがしてあり、入れないようになっているのだ。 慶子は窓から入るしかなかった。すえたような匂いが立ち込め、まったく掃除などしていないような部屋、そしてどれくらい洗濯をしていないかわからない汚れたシーツ。 慶子は部屋を掃除し、シーツを家に持って帰り洗濯し、代わりのシーツを持って行ってやった。そんな毎日が続いていた。 そしてとうとうあの日がやって来た。その年は例年にないほどの大雪だった。今年は六年生になる天子だった。その天子が二、三日前からひどい風邪にかかり慶子はその看病につきっきりになってしまった。彼女は舅の事が気にかかってはいたが、さりとて娘を一人置いてはいけないということで、ジレンマに陥っていた。それでも長男夫婦が隣にいるんだから、ちょっとは覗いてくれるだろうと信じ、娘の看病に専念した。 そして明けて三日目の朝にようやく天子の熱も下がり、一安心してその日の夕方、彼女は舅の元に行ってみることにした。 そこで彼女の見たものは─── なんと、大蔵は布団の上で眠るように絶命していたのだ。 そしてその部屋の有り様は─── 地獄だった。 部屋のいたるところに糞尿が散乱し、物凄い匂いが充満していた。 暖房器具は火事にでもなっては大変と最初から置かれてなく、窓は締め切ってあり、もちろん隣に通じる部屋には目張りがしてあるため出入りは出来ない。 慶子は義兄夫婦を責めた。彼らはいつも慶子が来ていたので、また来ていたと思っていたらしいのだ。でもこんな状態だったら匂いとかもしただろうのに、わからなかったのだろうか。どうやらいつもすえたような匂いはしていたので別段気にもしなかったらしいのだ。 慶子は自分自身も責めた。どうして電話の一本もしなかったのだろうか、と。 葬式は寒い寒い日曜日に執り行われた。かつての栄華の片鱗も見られぬ寂しい葬式だった。 「おじいちゃん……」 天子は黒の洋服を着て、お棺の中の祖父を見つめていた。涙は出なかった。祖母の時はもうだいぶ前だったのであまりに幼くて訳がわからない内に終わってしまい、その時は実感がわかなかった。 彼女の目に映る祖父は皺だらけの顔をしていた。苦痛に歪んでいただろう表情も今は安らかに見える。 (この人はいったい何なのだ?) 彼女は思った。 (『死』っていったい何?) 少し前まで動いて話していた祖父は、もう二度と目も開かないし口も開かないのだ。 (死んだら人はどうなるのだろう。私もいつかこの人のようにこんな小さな箱に横たわるんだろうか。その時、私の『心』はどうなるのだろう。全くの無になってしまうのだろうか……) 天子は身震いし、非常な恐怖を感じた。 自分が無くなる───これほど怖いことはないだろう。彼女はそう思うと同時に、何時までもお棺の中の祖父の顔から目が逸らせないでいた。 それを境にして少しづつ───少しづつ彼女の中の何かがズレ始めてきたのだった。 小雨が降りだした。窓の外を見つめる天子に雨の飛沫があたる。 「天子、濡れますよ。さあ、もうよしにして部屋に入りましょう」 ほっておくと何時までも外を眺めかねない彼女を母親である慶子が、優しく身体を支えて部屋の中に入れた。 「お母さん。あのねえ、智美ちゃんが毬突きしてたの」 天子は無邪気にそう言った。 「そうなの?」 母親はそう答えた。複雑な表情である。 天子の幼なじみであるその子は高校を卒業して直ぐに遠くの土地にお嫁に行ってしまっていた。その結婚式にも天子は出席しているのだ。 ふわふわした微笑を浮かべる彼女を目の前にして、慶子はあの不幸な事件を思い出していた。 そう、あの日もこんなシトシト雨の降る日だった。 もうすぐ中学生になりかけた六年生の二月の事。天子は一時限目の理科の実習に臨もうとしていた。 すると教科書を忘れているのに気づいた彼女は家が近くだったので、あと十分で始まる授業に間に合うだろうという事で取りに帰ることにしたのだ。 学校からの近道は川を渡った木々の生い茂る細いけものみちだった。昼間も日があまり届かず、うっすらと暗い。彼女が傘をさしながら足早に歩いていると、前方から学生服を来た男子生徒が自転車に乗ってやって来た。 小学校の横に高校が隣接していたので、恐らくそこの生徒だろう。彼女はチラッとそう思っただけで気にもせずに通り過ぎた。 ──ガシャン 彼女の後ろで何かが倒れる音がした。 その瞬間、彼女のスカートが後ろから何者かにめくられた。驚いた彼女は振り向こうとした。 しかし、右手に持った傘が邪魔をして相手の顔が見えない。 恐怖───あまりの恐怖に彼女は声も出なかった。 相手は彼女の腕を掴んでいた。天子は手が強張ったように動かず傘が手から離せなかった。しかし、かえってそれが彼女を助けることになったのだ。 彼女は無我夢中で持っていた傘を振り回した。地面にお尻がつき、泥水が染みてきても彼女には何も感じられなかった。とにかく機械的に振り回していた。 気がつくと、そこには泥だらけになり、雨で髪がぐっしょり濡れた天子だけが残されていた。彼女の手には骨の折れた赤い傘だけがしっかりと握り締められていた。 全身ずぶ濡れで血相変えて帰ってきた娘を慶子は驚愕して迎えた。そして事の顛末を聞き、更に動転した。とにかく彼女は警察に届けようと考えた。 「お母さん、止めて」 天子は母親にすがりついて言った。 「大丈夫だったから、お願い。恥ずかしいからそれだけは……」 彼女は泣いて頼んだ。そして急いで新しい服に着替えると学校に戻ろうとしたのだ。皆に知られたくない一心で。 慶子は娘の気迫に圧倒されもうそれ以上何も言えなくなり、家を出ていくのを見送るしかなかった。母の目には教科書を携えて走っていくジーパン姿の娘が映っていた。 その時を境にして天子は極度の男性恐怖症と人間不信に陥ってしまった。そして中学高校と全く人と付き合わず暗い生活を送ってきたのだった。 そんな彼女にも高校を卒業し、社会へと出ていく時がやって来た。大学に出してやる余裕は九条の家にはなく、それにあまり勉強の得意でなかった天子だったので、地元のスーパーの事務員として働くこととなった。 そこには二人の先輩が既に働いていて、彼女のような暗い人間が気に入らなかったらしい。カラオケや飲み会に誘っても絶対出てこない天子が生意気に見えたのだろう。彼女たちの苛めが何時の頃からか始まった。仕事のやり方は全く教えない、自分たちの失敗をなすりつける、大事な会議の日程の嘘を教えたりと徹底的にいびりまくった。 しかし、天子は耐えていた。どんなに苛められようが、とにかく反抗することなくジッとされるがままでいたのだった。 そんな日々が一年過ぎた翌年の新年会の日のこと。彼女にとって決定的な出来事が起きた。 その日、二人の先輩は課長から重大な事を頼まれていた。 何とか天子と二人きりになりたい、と相談されたのだ。 日頃から苛めても何の反応もない彼女に業を煮やした二人であった。今度こそ目に物言わせてやるとばかりに、はりきって酒の席でとにかく飲めない酒を無理やり飲ませ、前後不覚に酔っぱらわせたのだった。 そして課長の泊まる部屋に投げ入れるように彼女を放り込んだ。 天子は物凄い痛みで目が覚めた。彼女の目の前に自分の上司の姿があった。そしてハッと自分の姿に気づき、いったい何が行われているかを悟った時、彼女は渾身の力を込めて男の身体を突き飛ばし、半裸状態でその場を飛び出していった。 彼女はどこをどうやって帰っていったのか全く覚えていなかった。どうにか帰り着き、家族の寝静まった家に入り、彼女は呆然としていた。 「ぐっ……」 突然、身体の中心に鈍い痛みが走った。 彼女は憑かれたように台所へと向かい、果物ナイフを手に持った。明かりをつけ風呂場に入っていく。 (ああ……) 彼女は夢の中を彷徨っているような気分を味わっていた。 (永い間の苦しみから今、私は解き放たれようとしている。どうしてもっと前からこうしようとしなかったのだろう。私はきっと、この世に生まれてきてはいけなかったんだ) 彼女は風呂の残り湯に左手をつけた。右手に持ったナイフをゆっくり横へ引く。真っ赤な血がまるで赤潮のように広がっていった。 (ああ……) 天子はもうろうとして、その広がりゆく赤を眺めた。 まるであの日の右手に握られた傘の赤色のようである。 (どんどん広がって私を包んで…何処かに連れ去ってくれそう………) だんだんと薄れていく意識───彼女は心の中の何かが壊れるのを感じていた。 慶子は夢を見ていた。大蔵が枕元に黙って立っている。ただそれだけの夢なのだった。 彼女は妙な胸騒ぎを感じ、目を覚ました。 「?」 明かりがガラス戸に映っている。 不審に思った彼女は起き上がり明かりのついた風呂場に入っていった。 そして叫んだ─── 「お母さん、私とっても幸せ」 ハッと我に返って慶子は娘を見た。天子はあれから病院に運ばれ一命は取りとめた。 だが、目覚めた時、彼女は精神に異常をきたしていたのだ。 もう誰の言葉も理解せず、日がな一日窓の外を眺める事となってしまったのだ。 感情を子供の頃から自分の中に押し込め、押し込めすぎてとうとうその許容範囲を越えてしまった。 思えば可哀想な子だ。慶子は辛そうに娘の変わり果てた姿を見つめる。 「私、幸せよ」 天子はもう一度言った。 心が病んでしまっていても時々、どういう訳かふっと正常の世界に戻ってくることがあるようなのだ。 幸せ─── 確かに天子は今は幸せなのかもしれなかった。何にも縛られず、空を雲を木々を、夜を星を月を、自分の周りの自然を好きなだけ見ていられるのだ。 彼女は小さい時から音楽が好きで、ピアノも習っていた。だから曲が絶えることなく流れるように、ピアノ曲やヴァイオリン曲のレコードを回してやっていた。 彼女の一番好きなのはバッハのバロック音楽で、これがかかるとまるで飢えた子供のように、かじりついてステレオから離れなくなる。そんな時の天子は無上の恍惚感でもって見るものを彼女の世界に引きずり込むかのようだった。 それに彼女はいつも何かしら書いていた。 それは絵であったり文字であったりと様々で、絵は必ず顔だけだった。 彼女の描く顔はほとんどマンガの絵で、どれもみな美男美女だった。片目の隠れた長い髪の少年、片頬に傷のある男らしい顔つきの青年、頭に二本の角の生えた赤い瞳の少女、もみあげが金色で後の髪は銀色の青年などといった、いずれも見目麗しい者たち。 文字は詩のようなものが多かった。その殆どが生活感のない、異世界の事を綴ったもので慶子には全く馴染みのない世界観だった。 彼女はここに至って、ようやく自分の娘の本当の姿を見たような気がした。 やはり無理をしてでも大学に入れてやるべきだったかもしれない、と。 もしかしたら娘は家の経済状態を懸念して、親に心配かけまいと勉強は嫌いだと嘘を言っていたのかもしれない。文学、或いは音楽の道を進みたかったのではないだろうか。 (ああ!) 慶子は心で叫ぶ。 もっと子供に目を向けるべきだった。天子の心を開いてやるべきだったのだ。少し暗く育ってしまったが、中学高校と何事もそつなくこなし、大人から見て本当に手のかからない、いい子に育っていってくれた。だから安心して気にもかけなかった。 (いったい私は母親としてこの子に何をやってやったのだろう……) 慶子は自分を責めた。天子をこんなにしてしまったのは自分のせいなのだ。 「お母さん、どうしたの? 泣いてるの?」 小さな子供が母親を気づかうような表情を見せ、天子は慶子を覗き込んでいた。 「何でもないのよ。目にね、ゴミが入っただけ……」 彼女は急いで目尻を拭いた。 今日の天子は昔に戻ったようにお喋りだった。最近ではあまり無いことだ。もしかしたら元に戻るのでは、と慶子は一抹の希望を抱いた。 天子はホッと安心したように胸を下ろすとこんな事を言った。 「あのねえ、おじいちゃんが来たよ」 天子は嬉しそうだ。 「おじいちゃんって、九条の?」 天子は頷いた。 「真っ白な、お嫁さんが着るドレスのように白くて綺麗な着物を着てるの。そこに立ってたわ」 天子はドアの所を指さした。こういう時に逆らっては駄目だろうと思い、慶子は頷くだけで敢えて何も言わなかった。 「私、死んじゃうのかなあ」 「何を言うの!」 慶子がびっくりして叫んだ。 叫んでから、彼女はしまった、と思った。 天子はすっかり怯えてしまって、母親を大きな目をして見つめている。 慌てて彼女の手を握り宥めるように優しく摩った。 「ごめんね。あなたを怒ったんじゃないの。死ぬなんて言わないでね。お母さん、あなたが死んじゃったら物凄く寂しいから」 「…………」 しかし、既に彼女は自分の殻に閉じこもってしまって、母の声も聞こえて無いようだった。 天子は毎晩、枕元で子守歌などを歌ったり話しかけたりしてやらないと眠ることもしないのだった。ほっとくと一晩中暗い部屋の中で、人形のように目を開けたまま、じーっと闇の虚空を見つめ続けている。 いったいそんな時、彼女は夜の暗闇の中に何を見いだしているのだろうか。 そんな彼女をずっと見ている者がいたとしたら、時々彼女がふっと恍惚の笑みを浮かべるのに気がつく事だろう。 その幸せそうな微笑み───見る者を全て幸せの境地に誘いこんでしまうような、そんな安らぎに満ちた微笑。 いったい彼女は何を見つめているのだろうか。もしかしたら彼女の身体はここに存在しているが、精神だけ何処か違う未知の世界に飛んでいるのかもしれない。 有名な文学者たちが夢と現実の狭間を行き来したように、彼女もまた精神を病むことによって彼らと等しく同じ境地に至ったのだろうか。 天子は母に歌ってもらっても眠れない時も多々あった。そんな時は医者から貰った精神安定剤を飲んで眠ることにしていた。 そういう毎日がこの母娘の生活だった。 そして一方、彼女の父親の由紀夫は愛する娘のために一生懸命働いていた。 雇われ運転手として運送業に従事していたが、何年か前に独立し自分で会社を設立していたのだ。従業員も妻である慶子だけで、経理一般を全て彼女がやっていた。由紀夫は大型トラックに乗り込み、遠くまで荷物を運ぶ毎日だった。 儲けたお金は全て天子の治療にあてられていた。精神病の有名な先生がどこだかにいると聞かされればどんなに遠くても娘を連れていき診てもらったり、良い薬があると聞けば途方もない高さでも求めてきては娘に飲ませと、とにかく彼は必死だった。 由紀夫は娘の事を考える度に何に対してか無性に憤りを感じて仕方なかった。それは自分自身に向けられたものであったかもしれない。 (どうしてあの子だけがこんなに苦しまなくてはならないのだろうか。あの子がいったい何をしたというのだろう……) 自分がもっと早くに心を入れ替え、家族のために働けばよかったのだろうか。 (それで神様が怒って懲らしめるために娘にこのような無体なことを……) と、彼にはそんな事くらいしか思いつかなかったのであった。 彼はもともと深く物事を考える人間ではなかった。勉強とか仕事とかが本来あまり好きではなかったのである。 しかし、愛する娘のために何かしなければと思った時、彼は頑張った。頑張って娘の為にと働いたのだった。自分がしっかりしなければ娘は生きていけないのだ、と肝に銘じ毎日を暮らしていたのだ。 一体、この家族に何が出来たというのだろう。 彼らのような家族はこの日本にそれこそ星の数ほどあるとは思うし、彼ら以上に悲惨な家族も沢山あることだろう。 他人の事をとやかく言うことは簡単だ。簡単だけれど、他人と自分とを比較して幸せを天秤ばかりする事は愚かなことである。 他人がどうあれ、自分が幸せかと感じる、それだけが大切なのである。そこには他人など全く入る余地などないのだ。他人と自分を比べるということは、即ち幸せを追求する事にほかならず、幸せを追求している時、その人は不幸だからである。 幸せは追求する物ではない。 幸せはその人の心の中にあるものである。人間みんなが等しく生まれた時から持っているものなのだ。 どんなに不幸だと思われる状況でも、心が必ずその人を助けてくれる。それが幸せというものだ。 「お母さん、またおじいちゃんが来たよ。今度はお話してくれたの」 ある日、天子は母にそう言った。 慶子はいつもの夢の話だろうと、とにかく今度は心を平静に保ち、何を言われても彼女を驚かせることのないように決心した。 「へえ、おじいちゃんはなんて言ってたのかなあ」 彼女は聞いてくれたのが非常に嬉しかったらしく、口調もいつもより随分しっかりしていた。 「丁度ほら、この曲がかかってた時なの」 部屋の中には、天子の一番好きな弦楽四重奏曲パッヘルベルのカノンが流れていた。 「もうすぐおじいちゃんはとってもいい所に行くんだって。そこはすごく綺麗なとこで、いっぱい人がいるんだって。でね、神様のしているお仕事をみーんなで手伝ってるから、おじいちゃんもその仲間になってお仕事するんだって言ってたよ。もうおじいちゃんには逢えないのって言ったら、夜になってお空を眺めてごらんって。お空のお星様がまるで宝石のようにルビーやサファイアやエメラルドのようにキラキラ輝いていたら、それはおじいちゃんたちが大切なお仕事をしている証拠だから、そんな時に逢えるよっておじいちゃんは言ったの」 慶子は驚愕して自分の娘を凝視した。 これが果して精神に異常のある人間の言う事であろうか、と。 彼女はこんなに夢のある物語を聞いたことがなかった。彼女はどちらかというと現実主義者で、夢のような事を見たり聞いたりする事があまりなかった。 しかし、今の彼女の心境は確かに夢にすがりつきたいほどにボロボロだったのだ。 だから天子の話してくれたこの物語が、彼女の心にまるで万能薬のように染み渡って、彼女の疲れた心を癒してくれるようだった。 「天子……」 慶子は娘の細い身体を抱き締めた。 彼女のそれこそ天使のような白い肌、その背中に羽がついているようなそんな風情を思わせる、文字通り天から降りてきた天使のような彼女の身体を愛おしそうに、宝物のように。 そんな二人の周りをパッヘルベルのカノンは川の流れのように螺旋状に取り巻き、まるでそのまま天にでも連れていきそうなそんな曲調でグルグル回っていた。 それからそう遠くない日、慶子はまた夢を見た。 暗い、まるで常闇の世界に迷い込んだかのようなそんな闇の中、彼女は一歩一歩足を繰り出し歩いていた。 (私は何故こんな所を歩いているのだろう。鼻を摘まれてもわからないこんな所を私は一体何処に向かって歩いているのだろう) すると彼女の目に一点の光が見えた。 彼女はそれに向かって歩いた。心なしか速度が速まる。だんだんその光が彼女に迫ってき、そして突然、彼女の身体を包み込んだ。 そこは光の渦だった。輝く光彩が怒濤のように押し寄せてくる。 彼女は目眩に襲われ危うく倒れてしまうところだった。そんな時彼女の耳でない耳に何かが聞こえた。 (生きよ。精一杯の生を謳歌せよ) それは驚くほど神々しい言葉だった。背筋が感動でゾクゾクするほどだ。 「?」 彼女の耳に何かが聞こえてきた。パッヘルベルのカノン───? (生きよ。愛しき幼子たちよ。我はいつもここで見ている) 彼女はハッとして起き上がった。朝の柔らかな陽射しがカーテンの隙間から差し込んでいる。 彼女は言いようのない胸騒ぎに飛び起きると、二階に駆け上がっていった。 天子の部屋の扉を乱暴に押し開けると、中に飛び込んだ。 「!」 朝の光の中、天子は眠っていた。 彼女の顔はほっそりを通り越して、骨と皮のようにガリガリになってはいたけれど、その寝顔はどんな絶世の美女にも叶うことのない、人間を越えた美しさだった。正しく神に選ばれたと言っても過言ではない。 その息をしていない鼻はすうっと完璧な形をしており、その色を無くした唇は今にも喋りだしそうに薄く開かれ白い歯が見え隠れしている。 その長い睫毛が隈取る瞼ももう二度と開かれることなく、大きく愛らしかった茶色の瞳は塞がれたままだった。 髪の毛はフランス人形のようにクセッ毛の茶髪でフワフワしている。それは今でも変わらない。 天子はまだ生きているようだった。 しかし彼女の胸は生きている証の上下運動がなく、ただ静かに人形のように横たわっていた。 「どうして……」 慶子は呆然と立ちすくんでいた。あまりのショックに涙も出てこなかった。 「?」 すると彼女は天子の枕元に一枚の紙を見つけた。それには絵が描かれてあった。 宇宙空間に胎児が浮かんでおり、そして天子の字で詩のようなものが書かれてあった。 「生きよ、貴方はそう言われました。
生きることが幸せなら また死ぬことも幸せです。 だから私は生きるために 死にます。 おかあさん、 私は旅立ちます。 いつか、 そう遠くない未来に 常磐の彼方で 逢いましょう」 慶子の時が止まった。 何時までも何時までもそこから動くことが出来ず、立ちすくんでいた。 ──完── |
あとがき
ああ、とうとうこのドツボに暗い話を載せてしまいましたね。 これは私が生まれて初めて書いた純文学系の作品です。といっても、ラストまで純文学で通すことができず、結局ファンタジーっぽくなってしまいました。 鳥取文芸の選者の方に、「あまりにも主人公を蔑ろにしている」というコメントをいただきました。 やはり、無体なことをしてしまいましたかねぇ。 私としては、これくらいの出来事なんて、世の中ざらにあると思うんですが。 しかも、夢いっぱいな物語をこの作品でやりたかったわけではなく、とにかく暗い話を書きたいと思って書いたわけであります。 何が人にとっての幸せか───生きることも幸せならば死ぬことも幸せ──私はこのことを主張したかったのかもしれません。 私は今でもまだ「死」というものに甘美な憧れを抱いています。 永遠に若く生きていきたい──そう思う反面、はやくこんな辛い想いから脱して安らかな永遠の死を迎えたいとも思っている。 生きるということは本当に辛いです。今でこそ、頑張ることを捨てたから少しは生きやすくなったけれど、それでもまだまだ未来に幾ばくかの恐怖を感じています。 永久的な安息などこの世にあるわけはないし、またそれを求めて手に入れてもそれは本当の幸せとは限らない。幸せって誰でも想像できるけれど、誰でもが同じものとは限らないんですよね。 私は少なくとも今幸せだと思います。幾ばくかの恐怖心を抱きつつも、こうやって物を書けるということは、私の人生の中で一番の至福の時じゃないかと思います。 ここを読んでくれた人たちにも、その人なりの幸せが訪れますように──いつも願っています。 2000年8月28日(月) 今日は静かに午後の一時を過ごせそう? |