日中と夜間の寒暖差があるこの時期、けたたましい鳴き声に驚いた少年が空を見上げた。すると、彼の目に黒褐色の翼を広げて飛び立つ鳥が見えた。
「………」 少年は白いカッターシャツに黒ズボン、布製のリュックを背負った典型的な中学生という格好だ。 町はまだ早朝。学校に向うにはまだ早い。だが、彼は先程の母親との会話を思い出していた。 「俺、上の学校には行かないから」 「何を言ってるの。今時、高校に行かない人なんていないのよ」 「勉強好きじゃないし。それより早く仕事で稼いで母さんに楽させてやりたいんだよ」 「あなたはそんなこと考えなくていいの。勉強好きじゃないってあなたは言うけど、成績は良いじゃないの。先生がもったいないって言ってたわよ」 「そんなこと関係ないし。女手一つで育ててくれた母さんには感謝してる。だから、俺は……」 「あなたにわたしの何がわかるっていうの」 「母さん…」 思いのほか、強く彼女は彼を怒鳴った。 それを思い出し、少年は唇をかむ。 いつもの言い合いの末、彼は家を飛び出してきた。このまま学校に行ってしまおうと思って。 とぼとぼ歩きながら、どうしてこうなってしまったんだろうと考える。 母の自分を見つめる瞳には複雑な感情が見え隠れしていた。それは、物心ついた時から、彼は感じていたものだった。 彼は私生児だった。 父親は誰かわからない。 母は早い段階で、彼に父はどこの誰かわからないと打ち明けていた。ただ、合意の上での関係だったということがせめてもの救いだ。いらない子供、憎むべき誰かの子供というわけではないことはわかっていたのだから。だが、結婚するまでの感情は持てなかったということで、母は一人で彼を産み、そして今まで一人で育ててくれた。金銭のことはよくはわからなかったが、恐らくかなり苦しかったことだろう。近所のスーパーでレジ打ちのパートをするくらいしか仕事がなかったということで、それを知っていたからこそ、彼は中学を卒業したら働くつもりだった。今度は自分が母を養っていくんだという健気な気持ちから。とはいえ。 「ねーねーおかーさん」 「なーに、ケンちゃん」 「ぼくもラッキーのおさんぽしたい」 歩く彼の傍を朝の犬の散歩をしている親子の会話が聞こえてきた。 通り過ぎる親子を目を細めて見つめる。 (とはいえ…俺は母の愛を感じたことがない) 物心つく以前、母が自分をどのように育ててくれたのかはまったく覚えてはいない。だが、物心ついてからは今見た親子のような雰囲気は母から感じたことはなかった。 別に邪険にされたり、ましてや虐待などされたことなどまったくないが、自分が今まで見聞きしてきた親子間の関係を母との間に感じたことがないのだ。 一番顕著な事が、母は決して自分に対して「お母さんは…」とは言わない。自分がどんなに小さな時でも「わたしはね」という言い方をした。そういう些細なことが心に引っかかって、小さな頃から自分は母に対して甘えるということができなかった。彼女は息子を子供としてというより一個の人間として扱ったから。 昔はそれでもそれを変にも思っていなかった。だが、だんだん年を重ねて行くにつれ、親子というものが普通はどういったものなのかわかって、どうも自分の家庭は他とは違うようだと気づいていったのだ。 「………」 時々思う。 本当は母は息子の父親と別れたくなかったのではなかったのか、と。 憎んでいたとは思えない。 時折り、母の自分を見つめる目に切なそうな表情が見て取れて、ああ、もしかしたら自分は父にとてもよく似ているのかなあ、それで、まだ忘れられなくて、そんな目で自分を見るのかなあと思うのだ。 そんなわけで、実は彼もまた母親に対して複雑な気持ちを抱いていた。そりゃあ、いつもあんな切なげな目で見つめられたら、彼も年頃の男の子。男にとって母は初めて接する女でもある。ほのかな恋心を抱いてしまうのも致し方ない。 「さて…就職のことを何としても認めてもらわなきゃな」 一方、朝から眉間にしわを寄せて目をつぶって台所の椅子に座る女がいた。二階建てのアパートの一室。二部屋しかない狭い家だ。だが、それほど粗末というわけでもなく、それなりに小奇麗なアパートだった。室内もきれいに片づけられており、住んでいる人間がいかにキチンとした人間であるかがうかがわれる。 「支度をしなくては…」 閉じていた目を開いて女はため息をつく。 ぱっちりとした目は大きく、どちらかというと美人の部類に入る。 「今日は早番だったから…」 彼女は少年の母親だった。 中学生の子供がいるので年は30は過ぎているのだが、短い髪型のせいか年よりも若く見える。どうにかするとまだ20代でも通用するくらいだ。 少年もきれいな顔立ちをしていたが、この母親の子供なら頷ける。 似ているというわけではないが、醸し出す雰囲気が二人は似ていたからだ。 どこか機械的な動作で出かける用意をしながら、彼女は息子の言動を思い出す。 「わたしのことなど考えなくていいのに…」 普通の親としては、子供にああいったことを言われることはとても嬉しいことに違いない。もちろん、子供に苦労をさせたくないとも思うだろうから、嬉しいと思う反面、やはり親としては子供に迷惑をかけたくないのだ。 だが、彼女の本音はもっと違うところにあった。 彼女はどうしても後ろめたい気持ちが拭い去れず、その後ろめたさを息子に何不自由なく手をかけることによって解消しようとしていたのだ。 それは彼に両親不在という精神的苦痛を与えてしまっていることにある。 「こんなに後悔するとは思っていなかった」 彼女は何度もため息をついてから立ち上がる。身体が重い。わかっている。それは精神的なことからくる体調不良だ。いつか、この重圧から解放される時がくるだろうか。 彼女はもう一度ため息をつくと、自宅のドアを閉め、カギをかけた。 「………」 外に出て、朝日の眩しさに目を細める。 何もかもが輝いているように見えた。 世界はこんなにも美しいのに、どうして自分はこんなにも醜いのだろう。自分など生きている価値が本当にあるんだろうか。 「あの時、わたしは死んでしまえば良かったのかもしれない」 そうすれば、誰も傷つけることもないだろう。自分自身をも。 その時、チリリンという音とともに、通りを自転車が通り過ぎて行った。 「あ…」 それは息子の通う中学の生徒だった。 近くのマンションに住む息子と同年の子で、クラスは違っている。恐らく息子もその子と仲が良いというわけではないだろう。話題に上がったことはなかったから。 (本当に大きくなった…) 彼女は心でそう呟くと、自分も自転車に乗り、仕事場へと向かった。通り過ぎて行った少年とは正反対の方向へ。 今から16年前のことだった。 女が男に別れを告げられた。 「妻が妊娠した。別れてくれ」 「わかりました」 実にあっさりとした別れだった。 だが、男は知らない。女も身ごもっていたことを。 しかし、女の腹の子は男の子ではなかった。 彼女は知っていたのだ。彼が別れたがっていたことを。妻の妊娠はただのきっかけに過ぎないのだと。 そして、女は復讐するためだけに、男と同じ血液型のよく知らない男と関係を持ち、計画的に妊娠したのだった。あることを決行するために。 一年後、同じ病院で数日を隔てず、二人の女が子を産んだ。二人とも男の子を出産した。 復讐を誓った女は不倫相手だった男の妻の子と自分の子が同性であれば恐るべき計画を進めるつもりだった。そして、不幸にも二人の子は同性だった。 赤子のすり替え。 普通ならなかなか成功しなかっただろう。 だが、幸か不幸か運は女に味方した。 女は不倫相手とその妻の子を、まんまと自分の子として連れ帰ることができたのだった。 (いつかバレてしまうかもしれない) その日から女の心が休まる時は訪れなかった。 いつ、自分のところに彼がやってくるか、いつ警察がやってくるか、その恐怖に怯えつつ生活していくこととなった。 それでも、女は彼らの近くに住むことをやめなかった。 実の我が子の様子を見たいから、というわけではない。彼らがいつか事実に気づいて不幸になっていくのを見たいからというのが本音だったのだ。 だが、誰も何も気づかないまま、15年が過ぎてしまった。 彼女の子は血の繋がらない両親のもと、実に幸せに過ごしているようだった。 それとは逆に、自分が連れ帰ってしまった憎き二人の子は……。 あれだけ大胆で非常な行動をした彼女であっても、さすがに子供には罪はないという気持ちは持っていた。自分が産んだ子供にさえも愛情が持てなかった彼女であったので、親としての愛情はどうしても持てなかったのだが、本当の両親のもとで育つことのできなかった不幸な生い立ちのこの子を、自分なりにちゃんと一人前になるように育てようと思ったのだった。 「気づかれないすり替えに何の意味があったのだろう」 自転車をこぎながら、彼女は呟いた。 自分以外は誰も何も気づいていない。 こんなふうにうまくいってしまう事なんて普通はあり得ない。 なのに、ここまできてしまった。 「これからわたしはどうしたらいいのだろう」 わかっている。 墓場まで持っていけばいいのだ。 結局、不幸になったのは自分だけだったということだ。 復讐は復讐される側ではなく、復讐する人間に不幸が訪れるものなのだ。 神というものが本当に存在するとしたら、今のわたしを見て蔑むだろうか、それとも憐れと同情してくれるだろうか。否、それはあり得ないだろう。 結局、復讐する人間はそれだけの人間。 神は同情も蔑みも感じはしないのだろう。 神とはそういうものだ。 母と気まずいケンカをした少年は、まばらに生徒がたむろする校舎の廊下を自分の教室に向って歩いていた。そして、教室に鞄を置くと、すぐに教室を出て校庭に出た。 すると、校庭の傍の自転車置き場にあの少年が自転車を置いているところに出くわした。彼の母の本当の息子。そのことはもちろん彼は知らない。と、その時、自転車のハンドルが隣の自転車につかえて、自転車が派手に倒れた。彼は慌てて駆け寄り、自転車を起こそうとしている少年を助けた。 「ありがとう…」 にこっと笑ったその顔を彼はまじまじと見つめる。 その視線を不思議に思った相手は「ええと…確か君は1組の…」と言う。すると彼は「須永」と一言。それにこたえて相手も「僕は5組の…」と答えようとするのをさえぎって「相沢だろ」と言う。「え…」相手のびっくりした顔から視線を胸元に向け「名札」と言ってやると、それを聞いた相手が顔を赤くした。 (トロイやつだなあ) 彼、須永は心で顔をしかめる。 もっとも、彼は相沢の名前を名札で確認したわけではない。 もともと彼は相沢のことを知っていたのだ。 実は、幼い頃から相沢が自分の近所に住んでいることを彼は知っていた。 そして、何かにつけ、母親が相沢に何とも言えない複雑な視線を向けていたのを彼はずっと感づいていたからだ。 どうして母は相沢をあんな目でいつも見ていたのだろう、と。 あれはどういった意味の視線だったんだろう、と。 と、同時に、相沢の母親に対しても何というか、あまりいい感情を持っていなかったように思う。 それはどうしてなのか、幼い頃は漠然とした不安感を抱いただけであったのだが、最近では好奇心がわいてきて、それを知りたいとまで思うようになっていた。 恐らく、母に聞いても答は帰ってこないだろう。 なので、手っ取り早く、彼は相沢に近づいてみることにしたのだ。 そして、それはきっと母に知られてはいけない。 知られてしまったら何かが壊れる。 そんなふうに彼は思った。 「あんたさ、F町の公園近くのマンションに住んでんだろ」 「よく知ってるね。君もあのへんに住んでるのかい」 「うん。あんたやあんたのお母さんのことは子供の頃からよく見てたよ」 「そうなんだ。僕は全然知らなかったなあ。あ、じゃあ、あの角のところのアパートに住んでるのかな」 「うん、そう」 「へえ、じゃあ、すごく近くなんだな。もっと早くにそういうの知ってたら、君と僕って幼馴染になってたかもしれないんだね」 「そうだね」 その時、チャイムが鳴った。 もうそんなに時間が過ぎてたらしい。 二人は慌てて校舎へと走る。仲良く並んで走りながら、須永は言った。 「もし迷惑じゃなきゃ、今日、一緒に帰らないか」 「うん。いいよ」 相沢はにっこりしながらそう言った。 「………」 その笑顔を見て、なぜか彼は母親の顔を思い出していた。 その事を何となく不思議に感じながら、彼は走り続けたのだった。 「へえ、じゃあ僕たちって同じ病院で産まれたんだ」 「しかも誕生日も数日違い」 「それなのに君たちのこと知らなかったよ」 放課後、須永と相沢は一緒に帰路につきながら、自分たちのことを話していた。 誕生日が近いこと、病院が同じだったこと、などを。 「でもまあ、今のアパートに移ってきたのも俺が産まれてからのことだから、それまでうちの親もあんたんちのことは知らなかったと思う」 「そうかー、だから互いに知らなかったんだなあ」 「………」 とはいえ、須永はそういっても本当に母が相沢たちのことを知らなかったのか、いまいち確信が持てなかったのだが、そのことは黙っていた。 「ねえ、須永くん、帰ってからうちに来ないか」 「え、いいのか」 「うん、新しく買ったゲームがあるんだ。一人でやってもつまらないし、一緒にどうかなって思って」 「いいね。俺もやってみたい」 須永のアパートの前にやってきた二人は、互いに手を振って「じゃあ、あとで」と約束して別れた。 須永は手を振りながら走っていく相沢を見送った。 「………」 彼に近づいて本当によかったんだろうか。彼はそう思った。 何となく母を裏切っているような気がして、罪悪感に苛まれそうになる。 まるで、ふたを開けてはいけないパンドラの箱を開けようとしているようなそんな気分。いけないとわかっていてもどうしてもその誘惑には抗えない、そんな背徳感。 それでも、様々な不信感、不安感などで苛まれる日々を送るよりはましだ、と彼は思う。 たとえ、どんな結果になろうとも、たとえ、どのような最低最悪なものが溢れ出てこようとも、自分で決めて知ってしまおうと決心したのだから、自分はそれを受け入れようと改めて決意を固める。 「そうじゃないと、俺は前に進めなくなる」 これから生きていく長い人生の中、様々な困難にぶつかることだろう。それを乗り越えるためにも、今目の前の困難も立ち向かわなければならない。 これからは自分が母を助けていくのだ。 「そのためにも俺はもっともっと強くならなければならない」 彼は相沢が見えなくなってしまっても、唇をかみしめながらその場に立ち続けていた。 須永の母は疲れた顔をして自分のアパートに戻ってきた。 すると、思いもかけぬ光景を目の当たりにする。 息子と、そしてあの女のもとに托卵した実の息子とが仲良く歩いてくる光景を。 彼女は思わず物陰に隠れた。 心臓が早鐘のように鳴る。苦しい。チープな表現だが、口から心臓が飛び出てきそうだ。 なぜ? どうして? 彼女はわけがわからなくて半ばパニック状態に陥りかけていた。 目の前で育てた息子と産み落とした息子が談笑しつつ「また明日」と手を振る。 かたや自分のアパートへ、かたやあのマンションへと走っていく。 彼女はしばらくそこから動けなかった。 だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。 のろのろと重い足を引きずって帰宅する。 「ただいま…」 自分でもびっくりするくらいその声はガラガラに枯れていた。 すると、心配そうな顔をした息子が顔を出す。 「母さん、大丈夫か」 「………」 彼女は息子の顔をじっと見る。 駄目だ。 黙っていようと思ったのに、これ以上は… 「…あなた、相沢さんのところの息子さんと仲良かったのね」 「え…」 「見たのよ。一緒にいるところを」 「………」 「どうして…」 「そのセリフはこっちが言いたいよ」 思いのほか、彼の声が強くて驚く彼女。 見ると思つめたような表情だ。 「俺、知ってたんだ。ずっと昔から」 「何を…」 「母さんはいつも相沢のこと複雑な目で見つめてた。小さい頃はそれを何とも思ってはいなかったが、大きくなるにつれて、どうして母さんはあんな目で奴を見てるんだろうって。それに、奴の母親にだって、これは何かあるっていう目を向けてたし」 「はあ…」 彼の言葉に彼女は大きくため息をついた。 そうか、やっぱり自分には大それたことを実行するには神経が持たなかったんだな。 しかし、正直言うと、実の息子に対してはそれほど親としての情があるとは思えないので、自分は母親には向いてない性格だったんだということだけは知ることが出来た。だからこそ、取り換えたあの女の子である目の前のこの子に対しても、親としての愛情はどうしても持てなかった。 そんな自分に育てられたこの子も不幸だし、そして、産んだはずの実の息子も不憫だ。もっとも、向こうに知られない限り、あるいはDNA鑑定でもしない限り、向こうの親子が不幸になることはないだろう。こちらが関わらなければ、どこか彼らの知らない土地にでも行ってしまえば、それで彼らの生活は脅かされることはない。 だが、この子は…。 「ちゃんとしたことを聞きたい。どういうことなのか」 「いいわ。話すわ。でもね、わたしから聞いたことは絶対誰にも知られちゃいけないことなの。まあ、知られちゃいけないって言っても、それを守る義理はあなたにはない。ただ、聞いたことは、相沢さんたちには絶対話さない方がいいとわたしは思う。あなたがどう思うかはわからないけど」 「………」 彼はかなり緊張しているようだ。 彼だけではない。彼女も胃がキリキリするほど緊張している。 これを話したら、恐らく自分は破滅する。 この子に軽蔑されるだろうし、自分たちの関係も壊れてしまうだろう。 だがしかし、話さなければならない。 そうしないと、遅かれ早かれ、自分たちはどうしようもなく追い詰められることになるだろうから。 「あなたはわたしの子じゃないの」 彼女の言葉に彼の目が大きく見開かれる。 それはまったく思いもよらないことを聞いたという感じではなく、どちらかというと、やはりそうなのか、といった風であった。そして、彼は一言も発せず、じっと彼女の話に耳を傾けた。 「そう。相沢の子供がわたしの本当の息子。そして、あなたは相沢夫婦の実の息子なのよ」 16年前、彼女は相沢の父親と恋愛関係だった。だが、彼には妻がいた。つまり不倫をしていたのである。 ところが、妻に子供が出来たことをきっかけに、彼女は彼から別れを告げられた。もともと、彼が妻以外の女とそんな関係を続けていたのも、妻に子が出来なかったからであり、もし、妻より先に彼女に子供が出来ていたら、彼は妻と別れて彼女と結婚したことだろう。 彼女は自分が愛されているわけではなかったことを知り、怒り、復讐を誓った。なので、時を待たずに彼女は行きずりの男たちと関係を持ち、計画的に妊娠を画策したのだ。もちろん、もし、彼の妻の出産近くに自分も出産できる可能性がなくなった場合はその計画はとん挫するはずだったのだが、幸か不幸か、すぐに彼女も妊娠をし、彼女は計画を着々と進めて行ったのだ。 「だけど、血液型とか似てない似てるとか、そういうことでバレたりしないかって思わなかったのか」 息子の言葉に母は答える。 「まあね、顔の場合はどうなるか大きくならないとわからなかったけど、血液型はとりあえず同じのが産まれるように相手を選んだわ。彼と奥さんは二人ともA型だったし、わたしも同じだし」 「そんな行き当たりばったりな…」 「そうなの。わたしもうまくいきっこないと思ってたわ。ところが、今までバレずにきてしまった。DNA鑑定でもされたらバレちゃうだろうけど、向こうはそんなこと思いもしないくらいにあの子を実の息子と思ってるみたいだもの」 「ありえない…こんなこと…」 「でも事実なの」 彼は今まで母と信じていた女を見つめた。 だが、そうか…それなら今までの自分に対する態度も頷ける。 「母さんは俺を息子と思ったことは一度もなかったんだな」 「……ええ、そうね」 彼女はためらったあとそう答えた。 そんな答えが返ってくることはわかっていたが、それでも実際に母から聞くとショックを禁じ得ない。 「やっぱり本当の子供の方に愛情を感じるものなんだな」 「違う!」 彼は驚いて母の顔を見た。 「確かに、あなたに対しては親の愛情は持てなかった。でもね、実の息子に対しても同じなの。普通はお腹を痛めて産んだ子供だから、母親としての愛情が自然と生まれるものだと思う。でも、わたしはそれがまったくなかったの。たぶん、わたしは子供に愛情を持てない人間なのね。だから、無意識に子供を作ろうという気持ちが起きず、それで彼との間にも子を成すことができなかったんじゃないかしら。こんな女、誰にも愛されることなんてないわよね」 彼は母のその言葉を聞き、先程のショックが消えていくのを感じていた。 そうか、自分だけじゃないんだ。 相沢の、実の息子に対してもそうなんだ。 自分たちの間にはそういった親子の感情というものは存在してないんだ。 だったら…。 彼は母であった人の打ちひしがれた姿を見つめた。 目の前で床に手を突き、うつむいた姿が小さく見える。 その人はこんなにも小さかったんだろうか。 これではまるで稚い少女のようではないか。 そう。 この人は少女なんだ。 だから子供を持つにはふさわしくない。 永遠の少女。 (俺は…) 母とは思ったことはない。 ただ、今までは血の繋がった母だからと心をセーブしていた。 だが、赤の他人だと知った。 自分の気持ちを止めなくてもいいんだ。 「母さん…」 彼の声に目の前の小さな身体がピクリと震える。 彼はゆっくり動くとひざまずき、そして、やさしく抱いた。 「………」 ゆっくりと顔をあげた彼女は、微笑んでいる彼を訝しげに見つめた。 「いいよ。母さんはそのままで。俺は気にしてないし、これからも二人で力を合わせて暮らしていこう」 「え…?」 「どんな理由があったにせよ、あなたは俺の母であり、ここまで俺を育ててくれたわけだ。これからはあなたは幸せにならなきゃいけない。だから、今話したことは忘れてしまえばいいよ。俺も聞かなかったことにする」 彼女はまだ不安そうな目をしていたが、安心させるように彼がゆっくりと頷くと、おずおずと笑顔を浮かべた。それでもまだその笑顔はぎこちなかったが。 「無理に母親面しなくていいんだよ。俺たちは同居人でいいんじゃないかな。だから、やっぱり俺は卒業したら働くから。反対するなよ」 彼はそう言うと、安心させるようににっこりと笑った。 彼女は力なく頷いた。 だんだん緊張が取れてきたのか、彼女の表情もいつものものに戻ってきたようだ。 「じゃあ、この話はこれでおしまい。俺腹減っちゃった。晩ご飯作ってよ」 「そ、そうね…わかったわ」 彼女はゆっくりと立ち上がる。そして、台所へと向かう。 それを見送ってから、彼は自分の部屋へと入っていった。 その時の彼の顔は長年の謎が解けたことで、晴々とした表情が浮かんでいた。 次の日、彼は早くから目が覚めた。 いつか聞いたけたたましい鳥の鳴き声を聞いたような気がしたからだ。いや、それは夢の中で聞いたのかもしれない。 (あれは…) 黒褐色の翼を持つあの鳥は確かにホトトギスだった。 (ホトトギス…あれだよな。托卵する鳥) 布団に横になったまま彼は昨日の話に思いを寄せる。 言うなれば、これも托卵とも言えるか。 いや、だが、普通の托卵は大切な自分の子をもっと安全に育てるために行われるものだ。 彼女の場合は憎むべき相手に丸投げして、自分たちの子ではない子供を大事に育てる様を心で笑うために、或いは、バレた時に相手を苦しめるために行う托卵であったから、通常のものとは全く違うのだ。 「………」 彼はおもむろに起き上がると、着替えを済ませて、母の用意してくれた朝食を食べ、普段通りに彼女に「行ってきます」と言ってから家を出た。 すると、相沢がマンションから出てくるのを見つけた。 二人は声を掛け合い一緒に歩き出す。 「今日は自転車じゃないんだな」 「うん。部活がある時は自転車で行くんだけどね」 「今度、俺んちに来ないか」 「うん、行くよ」 「なんかさ、俺たち、友達になれそうだよな」 「僕もそう思う。なんか他人って気がしないんだよね」 「……俺も」 須永は意味深な笑顔を向けて答えた。 相沢はそれにはまったく気がつかない。 「なあ、相沢」 「なに?」 「お前さ、自分の母親のこと好きか?」 「うーん。この年になるとなかなかそういうのって言えないんだけどね。でも、僕はお母さんのこと世界一のお母さんって思ってるよ」 「そっか」 「須永君は?」 「俺も」 彼は力強く答えた。 「俺の母さんも宇宙一の母さんだよ」 彼はこいつとは親友になれそうだなと思った。だから、こう言った。 「なあ、俺のことカヲルって呼んでくれよ」 「うん、いいよ。だったら、僕のことも衛って呼んでよ」 「俺たち、親友になれそうだな」 須永カヲルは晴々とした表情でそう言った。 空は彼の心を映したかのように澄み切った青空だった。 2013年11月4日記更新 |
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托卵をテーマにして書いたこの小説。 実はこの小説から筆名を変えて書こうかと思ったのですが、投稿する直前にやめました。 で、なぜ筆名を変えようかと思ったのか。実はこの小説を書き終わった時に、もう投稿はやめようと思ったからでもあります。 ただ、次の年には「これを書こうかな」とネタを思いついたので、次も書くかもしれません。まだわからないですけど。 以前、ある人に、その人が書いていた日記をモチーフにしていつか小説を書かせてくださいって言っていたのがあって、それを思い出したから、もしかしたら次はそれを小説に書くかもしれません。 さて、この「ホトトギス」ですけど、主人公はいずれ自分を育ててくれた血の繋がらない母親と結ばれることになるんですよね。そこらへんは本編では書いてはいませんけど、それとなく作中にそうなりそうな表現をしたつもりです。 |