正月に年始にやってきた成美が、まるで「子供ができたよ」というノリで言った。
「母さん、わたしね、乳がんになっちゃったの」 「え…」 伊藤成美、今年三十歳になる。二十歳で嫁いでから十年、いまだに子供はいない。母である晶子、五十歳。十九で結婚して二十歳で成美を産んだ。なので、娘も早いうちに子供ができるだろうと、結婚当初は楽しみにしていたのだが、二年三年と経つうちに諦めることにした。嫁ぎ先の姑はやいのやいの言っていたようで、この上、実家の母親までもが娘にプレッシャーはかけられないと思ったからでもある。成美は婦人科にもかかり、不妊治療をしていたようだが、夫である健児があまり協力してくれなかった。不妊治療には夫の検査も必要なのだが、健児はかたくなに検査に応じなかったのだ。結局、いろいろ治療を試してはみたものの、子供はできなかったのだ。晶子は「絶対、健児さんに原因があるはず」と思ってはいたし、それは成美もそう思ってはいたようだが、健児は自分には落ち度はないと言い張り、姑はそれに賛同した。嫁である成美に原因があると言い張った。ことあるごとに姑は成美にあたり、しかも、夫である健児も己の母親を諌めようともせず、むしろ、成美に心無い言葉を投げかけるようになっていった。 「もし、つらいようなら離婚してもいいんだよ」 晶子は娘に寄りそうと優しく声をかけた。娘ががんになってしまったのも、そういった過度なプレッシャーによるものなのだろうと彼女は思った。 「うん。でもまだ大丈夫。わたしが病気になったことを知った健児さんが、少し優しくなったみたいなの」 姑は変わらず嫌味タラタラらしいのだが、健児が少し反省したらしく、成美の身体を気遣ってくれるようになったという。抗がん剤治療の日は車で病院に送ってくれて、その上、身体を気遣ってくれるそうだ。ただ、少し気になることができたと成美は言う。 「最近ね、健児さん、新興宗教にはまっているらしいのよ。お祈りするだけっていう宗教らしいんだけど、祈れば悪いところがたちまち治るっていうのね。わたしは信じてないんだけど、一度、健児さんが原因不明の腰痛になった時に、お友達に誘われてその宗教でお祈りしたところ、すぐに治ったことがあって、それ以来、仕事が休みの時はそこに通ってお祈りしてるらしいのよ。今回もわたしが病気になったということで、わたしのためにお祈りしてくれているんだけど」 胡散臭い。 晶子はそう思った。 最近、よく周りでも聞く「祈祷」という新興宗教。過度な誘いはないのだが、じわじわと大勢の人たちの間に浸透していっているようだ。晶子の仕事場にも同僚の女性がその宗教に入信しているらしく、以前、晶子が目を悪くした時に祈ってあげるからと、仕事が終った後のロッカー室で数分、手をかざして祈ってくれたことがある。その後、それのおかげでというわけでもなく、ただの疲れからくる目の不調だったということで良くはなったのだが、同僚は自分の祈りが通じたのだと、あなたも一度教会に来てみないかと、しつこく誘われるようになった。その職場はすぐに辞めてしまったので、あれ以来、晶子は同僚とも会っていない。 「それで、成美、これからどうするの」 「うん。それがさ、最近、お義母さんも体調が悪いのよ。そんなわけでわたしの世話なんかできないわけだし、わたしもお義母さんの世話するどころじゃないってことで、健児さんがお義母さんを介護施設に入所させてくれるって言うのよ。とりあえず、わたしの治療に専念して、良くなればまた引き取ればいいってことにしてくれたわけ」 「おや、健児さんにしてはいい選択をしてくれたわけだね。母さんとしては、別に実家に戻って来て、こっちで治療してもいいって思ったんだけど」 「わたしもそれがいいなあと思ったんだけどね。でも、健児さんがいろいろ手配してくれたから、ここは彼を立てようかと思って」 「まあ、そうねえ、男としては嫁の実家に任せるなんてプライドが傷つくかもしれないしねえ」 今は亡き夫のことを思い出して、晶子は苦笑した。かつての彼女も似たような経験をしたのだ。 そして、成美は嫁ぎ先に戻っていった。実家に車で送ってくれた夫に迎えに来てもらって。健児も一緒にと誘ったのだが、玄関先で年始の挨拶だけして早々にあちらに戻っていたのだ。健児の母の介護施設に行くからと。成美は「結局はわたしよりも自分の母親のほうが大切なのよ。まあ、その気持ちはわたしもわかるけどね。わたしも夫より母さんのほうが大切だもの」と言っていたが、母としては嬉しく思うが、それで本当に良いのだろうかという気持ちある。それは確かに自分も夫よりも実家の両親のほうが大切だったという気持ちがあったから、娘の気持ちもわからないではなかったのだが、やはり、客観的に見て、愛し愛されて結婚した相手を何よりも大切に思うという気持ちが正しいことのように思うからだ。何も自分の親を蔑ろにしているというわけではないのだが、普通は愛する伴侶の方を優先させるべきだろう。気持ち的にも物理的にも。たとえ血が繋がっていたとしても、だ。もっとも、子供でもできたら、その子供のほうが伴侶よりも大切にはなっていくのだろうが。 「母としてできることは祈ることくらい、か」 晶子はそうつぶやいて苦笑した。結局は祈るしかできない。病気になったのも姑で大変な目に遭っているのも自分ではなく娘自身なのだから、それを乗り越えるのも娘自身でなくてはならない。金銭的な助けも精神的な支えもしてやれることはしてやるが、実際に問題に立ち向かうのは娘自身なのだ。母親としては「がんばれ」と祈るしかない。それが現実的な助けになるとは夢にも思わない。つまりは、この「祈る」という行為は相手のためではなく、何もできない自身に向っての救済でしかないのだ。そういうこともあり、晶子は祈祷という宗教を心から好きになれなかった。 晶子は広告を取り出した。それをハサミで正方形に切り出すと、それで折鶴を折り始めた。何かしていないと娘の病気のことで悪いことばかり考えてしまいそうだったからだ。それが直接、病気に効くわけではないとわかっていても、晶子はやらずにはいられなかったのだ。 帰りの車中、成美は助手席から外の風景を眺めていた。 生まれ育った町。あの神社もそこの公園もすべてが見慣れたものだった。嫁いでから十年経ってもここらへんは変わらない。きっとこれからもそんなに変わることはない街並みだろう。正月、盆など年二回は必ず戻って来ていたので、それほど離れている感は無いし、嫁ぎ先も隣の市でもあるので、遠くに住んでいるわけではない。だが、姑の手前、しょっちゅう帰省するわけもいかなかった。舅は嫁ぐ前にもうすでに亡くなってもいたので、姑の関心のすべては息子であり、そして、その嫁が産むであろう孫であった。それもあって、姑は嫁が実家に戻ることに良い顔をしなかったのだ。しかし、成美の父親も成美が結婚して五年後亡くなったこともあり、娘としては母が一人で暮らしていることを心配もしていたのだ。だから、できれば一ヶ月に一度くらいは実家に顔を出したいと思っていたのだが、姑の手前それもできず、しかたないので週一で実家に電話は入れていた。しかも、電話をしているのを知られないためにも家電話ではなく、買物に出たついでにケータイで電話をするとかそんな感じで。元来、ポジティブで明るい性格な成美であったが、さすがの彼女も姑のせいもあり、かなりのストレスを強いられていた。そういった関係もあって乳がんにもなってしまったんだろう。と、本人はそう信じていた。そういうこともあり、姑が介護施設に入ってくれたことは少なからず彼女に安堵を与えたことも確かだった。抗がん剤治療はかなりしんどいことではあったのだが、精神的なストレスがかなり軽減されたということもあり、彼女も多少は心が広くなってもいたのだ。何となくそのまま病気も治ってしまうのではないかという気持ちも出てきている。なので、夫の「もっとゆっくりしてくれば良かったのに」という言葉に気づかいのある言葉を言うことができた。 「そうもいかないわよ。お義母さんのこともあるでしょ。なんなら、このまま介護施設にお義母さんのお見舞いに行ってもいいのよ」 「いや、そこまでしなくていいよ。お前をうちに届けたら、俺はちょっと施設に行ってくるけど」 「あら、わたしも行くわよ」 「お前も病人なんだから、うちでゆっくり休んでろよ。俺は母さん見舞ったあとに教会に顔を出してくるから」 満面の笑みでそう答える健児に成美は一瞬複雑な表情を浮かべた。 「夕飯はどうするの」 「食べてくる」 「そう」 すると、健児は彼女の顔色をうかがうように運転席からチラッと視線を向ける。 「何か買って帰ろうか」 「いらない。今日は食欲ないからそのまま寝るわ」 「そうか…無理するなよ」 夫のその言葉には返事はせずに彼女は黙り込んだ。それが気になるのか、しきりに健児は妻に視線を向けた。それから家につくまで二人はまったく会話もなく、重苦しく時間は過ぎていった。 そして、やっと家につき、健児は妻を置いて出かけて行った。 成美はノロノロとした足取りで家に入って行った。カギをかけて大きなため息をつく。ゆっくり靴を脱いでからあがり、リビングへ向かうと、ソファに身体を投げ出すように座った。なにもかもがめんどくさいと思う。姑のことも夫のことも、そして自分の病気のことも。 ソファに寝転んで天井を眺める。 この広すぎる家に今は自分一人でいるのだ。もっとも、姑や夫がいても広いと感じていた。子供でもいればそんなことも考えなかったかもしれないが。 恐らく、その子供がいないということで夫は浮気に走ったのだろう。しかも、どうやら姑もそれを知っていた節がある。そして外に子供でもできれば、成美は離縁されるのだろう。だが、もし夫に不妊の原因があれば、いくら浮気をしても子どもなんかできないはずだ。もっとも、本当に夫に原因があるのかどうかはわからない。ただ、自分にはできない理由はないはずだと医師は言っていた。そうなれば、どうしたって自分ではなく夫に原因があるのではないかと思ってもしかたないだろう。 「ほんとバカバカしい」 成美はもう一度大きくため息をつく。 「何としても病気を治して、こっちから三行半を突きつけてやるわ」 天井を見つめる彼女の瞳には強い輝きが見て取れた。 「それで、成美さんのご実家はどうだったの」 健児の母親の声には力がなかった。今はもうベッドから起き上がることができず、寝たきりのままだ。健児はやせ細った母親の顔を痛ましく見つめながら答える。 「俺は車で待ってたから知らないよ」 そんな息子に対して力なく息を吐くと、しょうがないといった表情を見せた。 「おまえはあの人が苦手だったみたいだからねえ」 「それより、どうなの、身体の具合は」 健児は慌てて話を変えた。 「あまり良くはないね」 「だったら、また祈ってあげるよ」 「健児」 とたんに健児の母の顔が不快感に歪んだ。 「何度も言うけど、あそことは縁を切りなさい。あそこで知り合った女のことは大目に見たけど、あたしは祈りで何でも解決するっていうのはすかん」 「そんなこと言うなよ。祈祷のおかげで俺の腰も治ったんだし」 「バカお言いでないよ。気の持ちようだよ。身体の不調のほとんどがそれだ。だから祈りのおかげで良くなるなんてただのきっかけにすぎん。確かに祈る事は大事だろうが、それを奉るなんざ、お門違いだ。まさか、成美さんの病気にも効くなんて思ってやしないわな」 母の言葉にムスッとした表情を見せる健児。その様子を見て、自分の予想が的中したことを知る。 成美さんも成美さんだ。 子が出来ぬのならさっさと息子と離縁でもすればいいのに、別れないとは何を考えてるんだか。最初から息子と一緒になることに反対をしていたのだ。やはりこんなふうになってしまった。このままでは孫を抱かないまま自分は死んでしまう。そう思ったら、何だか猛烈に腹が立ってきてしかたない。と、そんなことを思った時、急に息苦しくなってきた。 「あ…あああ、く、くるし…」 突然、苦しみだした母にびっくりする健児。慌てて施設の職員を呼びに行った。 健児の母親はそのままあっという間に亡くなった。心臓発作だった。もともとそれほど心臓は強くなかったのだが、加齢とともにどんどん耐性がなくなってきていて、そこへ強いストレスがかかったための不幸だったようだ。 「やっぱり祈祷にすがらなかったからこんなことになったんだ」 葬式が終わり、仏壇の前に座った健児は写真の母親にそう語りかけた。 幼い頃から父にも母にも逆らうことができず、二人の思い通りの生き方をしてきた彼だった。 ただ、それでも認めてもらいたいという気持ちは人並みに持っていた。 だが、やることなすことことごとく否定され、認められぬまま父親は病で亡くなった。 それからは母親に認めてもらうために頑張ってきたつもりだった。 自分からこういう人と結婚したいと妻を連れてきたりしてもみたが、結局は母は彼女を認めてはくれなかった。せめて、妻が子供でも産んでくれれば、少しは認めてもらえそうだったのだが、妻とは子供をもうけることができず、母は「それみたことか」と責めた。 妻の実家に行けば妻の母親にまでも蔑みにも取れる態度は取られるし、妻は妻で、その母親と同じような言動を自分に取ってきて、いったい自分は何者なんだと腐る日々を送っていた。 そんな時に祈祷に出会い、その祈祷で知り合った真由美と心安い仲になり、やっと自分というものを取り戻した気分になっていた。 妻とは子供もできなかったし、そういったことで真由美と最初は軽い気持ちで関係を持ったが、いつしか妻とは離婚して、自分を崇拝してくれる真由美と一緒になろうと思うようになっていった。 だが、妻が乳がんになってしまった。 こんな時に妻と離婚することは、さすがの健児にもできないことだった。そこまで非情な男ではなかったからだ。 「だが、手術が終わって、病気の見通しがついたら…」 その時は離婚しよう、と健児は呟く。 真由美と新しい生活を始めるのだ、と。 ところが、葬式から一週間後、健児は突然に別れを切り出された。妻ではなく真由美に。 その日は祈祷の会の定期集会の日で、集会が終わった後に健児は真由美と一緒に食事に出かけた。 真由美の様子はいつもとまったく変わらず、まさかあんなことを言われるとは健児も思っていなかった。 食事が終わり、そろそろいつもの通りにホテルにでも行こうかとなった時だった。 「健児さん、私たちお別れしたほうがいいと思うの」 「え? どうしてそんなことを…」 「あなたは奥さんと別れて結婚してくれると言っていたわ」 「そうだ。その通りだよ。もうすぐで妻とは別れられるんだ」 「でもね、私は子供がほしいのよ。けれど、あなたはたぶん子供を作る能力はないと思ったわ」 「え…」 「今までずっと私たち、避妊なんてしたことなかったわよね。確実に子供のできる時だって避妊なんてしたことなかったわ。それなのに子供はできなかった。あなた、奥さんとの間にも子供できなかったじゃない。これはもうね、あなたに問題があるとしか言いようがないのよ。私、もうこんな将来性のない関係は続けたくない。ちゃんと結婚してちゃんと子供を作れる他の誰かを見つけたいのよ」 健児は絶句した。 まさか、真由美にこんなことを言われるとは想像だにしなかった。 自分たちの間には確かに愛情があると確信していただけに、彼のショックは多大なるものだった。 「君は…俺のことを愛してたんじゃないのか?」 そう絞り出すように言うのがやっとだった。 「もちろん愛してたわよ。でもその愛はちゃんと子供が生まれてちゃんと家族になれることが条件の愛情だったのよ。私はそういう女なの。男女の愛情よりも家族の愛情を第一に考える女なの。子供なんていなくても二人だけで生きていこうという気持ちは私にはわからない。私はそういう女なのよ」 健児にはそんな真由美の気持ちは理解できなかった。 自分は子供なんていなくても愛する女といつまでも一緒に生きていきたいと思う。 そりゃ男女が結婚すれば子供ができることはあるだろうから、普通に子供ができたらできたでそれは否定するつもりはないが、子供がたとえできないとしても、それでもいいじゃないか。できないことをどうしてなのかを調べなくても、神様の授かりものとして片づけて、医者の世話になったりしなくても、できないならできないなりに二人で生きていくことを考えることも間違っていないと思うのに。 だが、自分の母親にしろ、妻にしろ、そして、この真由美にしろ、今まで健児に関わってきた女性はすべて子供のことを重大問題として提示してきた。健児にも検査をしろと強要してきた。正直うんざりだった。 「わかった。君がそこまで言うのなら、別れよう」 「ありがとう。それじゃ、さようなら」 真由美は立ち上がると店を出て行った。 あとに残された健児はいつまでもそこに座ったまま呆然としていた。 成美の手術日が決まった。 抗がん剤治療でガン細胞が小さくなり、検査で転移も見られないということもあり、8月初旬に手術することになった。 「健児さんはどうしたの」 手術の当日、成美の母親が付き添いでやってきていたのだが、成美の夫がどこにもいない。 成美はため息をつくと「いつものところよ」と呟くように言った。 「わたしの手術の成功のために祈ってくるって」 「なんてまあバカなことを」 晶子は呆れたと言わんばかりに吐き捨てた。 「そんなことより夫としてやるべきことがあるでしょうに」 「もういいわ。諦めてるから」 成美は無表情でそう言うと淡々と続けた。 「手術が終わってしばらくしたら離婚話を進めるから」 「そう。それがいい。別れたらうちに戻って来なさい」 「うん、ありがとう」 そうして成美は手術室に入って行った。 手術は二時間程度で終わった。それほど難しい手術ではなかったらしい。 昼には手術は終わり、個室の病室に運び込まれる。経過を見て次の日は大部屋に移されるという。母親が今晩は付き添う事になった。 「母さん、ごめんね。手間取らせて」 「そんなことは心配しなくていいのよ」 晶子はそう言うと、娘の額にかかった前髪を払った。形のいい額が露わになる。 「それにしても健児さんはまだ来ないのね」 「来ないなら来ないでいいわよ」 あくまで成美の表情は無表情だ。それは、つまらない人間に余計な気をつかいたくないという意志の現れのように思える。 「そうね。あんたはもう何も考えずに眠りなさい」 「うん。でもたぶん眠れないと思うわ。わたしが眠れなくても母さんは遠慮なく寝てね」 「バカだね、この子は。そんなこと気にしなくていいんだよ、病人なんだから」 晶子は娘の頭をなでながら微笑んだ。 成美の夫は、結局その夜は一度も姿を見せなかった。 それから数ヶ月後、成美と健児はとりあえず円満に離婚した。 子供がいなかったこともあり、それほど難しい話ではなかった。 成美は離婚に伴う財産分与などもすべて辞退した。本当なら健児の浮気で慰謝料を請求することもできたのだが、成美はそんなことはしたくないと希望。憎んだり嫌ったりして別れるわけではないので、穏やかに別れたいと彼女は思ったのだ。 当初、健児は浮気相手と再婚するつもりだったが、その相手とも子供の件で仲違いしたせいで別れてしまったことを成美に正直に告げ、自分の思いやりのなさを痛感し、土下座して謝り、何とかやり直せないものかと懇願したが、もうすでに成美の決心は変えることはできず、離婚話は進んだ。 「次に一緒になる人に対しては、もっと誠意を示してあげてね」 最後に成美が健児に言った言葉だった。 (あと、祈祷のことだけど…) 本当はそれを一番言いたかったことであった。 だが、信仰については他人があれこれ言うべきことでもないという気持ちも彼女は持っていた。 ただ、信仰にのめりこむ人のほとんどが他人に強要するところがある。こちらが理解を示して信仰をする自由を認めているのだから、信仰を強要しないでほしいと思うのは当たり前のことではあるのだが、どうしても本人たちは理解しない。それはそうだ。本人たちは善意から信仰を強要しているからだ。いいものを紹介して何が悪いのだという気持ちがあるからだ。自分にいいものが他人にとってもいいものであるとは限らないことをどうしても理解できないのだ。 (どうせ言っても言い合いになるだけよね) 成美は諦めていた。 嫌な思いをしてまで彼の気持ちを変えることをすべきではない。もう自分たちは人生のパートナーではないのだから。 あとはもう自己責任。痛い思いをするのも本人のせい。もう自分は関わり合いのないこと。あとは自分は自分のことだけを考えればいい。 ということで、彼女は祈祷のことについては一切触れなかった。 そして、その後、二人は二度と会うことはなかった。健児は実家を売り払って別の土地に移り住んだからだ。 あれから健児がどうしているか成美にはわからなかった。 時折り、街で祈祷のチラシ配りをしている人を見た時などに、彼はどうしているだろうかと思うことはあったが、普段はまったく思い出す事もなかったからだ。 今もチラシ配りをしている年配の男性を見て、彼もこんな年寄りになるのだろうかと、買物に向う足を止めたところだった。 「あ、奥様」 そんな時に声をかけられた。 成美が振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。 手に持たれたチラシを見て、どうやら祈祷の信者であることがわかる。 成美が怪訝そうに首を傾げると、その女性は気まり悪そうな表情を見せた。 「もう奥様ではなかったんですよね」 「え?」 「えっと、すみません。私、健児さんとお付き合いしていた者なんですけど」 「あ…」 成美は目を見開いた。 「ほんとにすみません。こんな所で声なんかかけて。あの、すごくぶしつけなことなんですが、ちょっとお話できませんか」 この女は何を言っているのだろう、と成美は少し憤りを感じた。 それは相手が自分の顔を知っていて、こちらは夫であった男の不倫相手の顔を知らなかったこと、それほど自分は馬鹿にされていたのだろうかという思い。しかも、そっとしておいてほしいと自分は思っているのに、わざわざ己の存在を知らせて、これ以上何をしたいと思うのかがわからない不気味さにもあったかもしれない。 「こちらには何も話すことはありません」 成美は軽く頭を下げると立ち去ろうとした。 「あのっ、こんなこと言う資格はないとは思うんですけど、あなたの幸せを祈ってます」 今の言葉で成美の怒りは頂点に達してしまった。 穏便に立ち去ろうとしていたが、彼女はくるりと振り返るとつかつかと相手に近寄った。 「わたしはあなたたちの信心しているものに何の恨みも持っていません。でも、わたしは祈るだけしかしないあなたたちの祈祷はただの偽善だと思っています。祈るだけで必ず病が治るとか、祈るだけで何でもかんでも良い事に変わるなんて、そんな都合のいいことなんてあるわけがない。だってそうでしょう。だったら健児さんのお母さんは死ななかったでしょうし、健児さんとあなただって別れることだってなかったはず。わたしは信じません。祈ることですべてが良く変わっていくなんて、そんなことあるわけがない」 「叶わない願いは祈りが足りなかっただけです」 ぽつりと真由美が言った。 彼女の表情は無表情だった。 それが成美には不気味に見えた。 「もちろん絶対に叶うなんてことはないですよ。でもね、祈祷で祈ることで叶うこともあるんです。それにみんなすがりつくんですよ。人は何かにすがりつかないと生きていけないものなんです。そして、それを大切な人にも感じてもらいたいんです。だからこうして宣伝してるんですよ。一人でも多くの人が願いの叶った自分たちと同じように幸せになってくれるのを。私たちと同じに信じてもらいたいんです」 「だったらどうして健児さんと別れたんですか。大切な人じゃなかったんですか。大切に思ったから、わたしから彼を奪ったんでしょうに。それこそ祈って、別れなくてもすむように祈ればよかったじゃないですか。子供を授けてくださいって」 「それについては返す言葉もありません。たぶん、きっと、私は彼を愛してなかったんじゃないかと、本当に愛してたわけじゃなかったんじゃないかって思ってます」 成美はそれ以上、何も言えなくなってしまった。 自分だって真由美を責められる立場じゃない。自分だって彼を見捨てたようなものなのだ。本当に愛していたら、やり直したいと言ってきた彼の手を再び取ったはずだろう。そうじゃなかったということは、恐らく自分も本当に彼を愛していたわけじゃなかったのかもしれない。 「とにかく、わたしはあなたに祈ってもらわなくても、自分の力で幸せになってみせます。だから、わたしの幸せなんか祈らないでください」 成美は踵を返すとその場を立ち去って行った。 彼女は歩きながら思った。 本当はわかっていた、祈ることで変わるものならば、自分だって心から祈ったことだろう、と。 自分だけじゃない。 誰だってみんな何かに誰かに祈り続けている。心の中で。 それは時として神とか仏とか言われるものに人は祈るわけだ。 そして、祈祷に限らず、宗教というものはえてして他人にその宗教を押しつけるきらいがある。 宗教は怖いものだ。 そのせいで争いごとが起きる。 争わないための宗教なんて存在しないのかもしれない。 何の為に存在するんだろう。 人を幸せにするために存在するものじゃないんだろうか。 「その宗教のせいで、わたしの暮らしはめちゃくちゃになった。だからわたしは宗教なんて信じない。もう何にも祈らない。祈るくらいなら自分で何とかするわ」 成美は立ち止まった。 それは交差点だったから。 信号待ちで止まったわけだが、彼女は空を見上げた。 空は雲一つない青空だ。 彼女はそこにいるのかいないのかわからない神に対して宣戦布告をしたのだ、心の中で。 (神なんて信じない。信じるのは自分。確かな存在は自分しかいないのだから) 彼女は瞳に強い光をたたえながら歩き出した。 その足取りはしっかりとしており、何者にも邪魔はさせないぞという気概が感じられた。 そんな成美の頭の上に、どこまでも続く青空が広がっている。 まるで彼女を祝福するかのごとく、どこまでも空は青く輝いていた。 完
この作品は去年、投稿するはずのものでした。途中まで書き進めていたのですが、結局、締切には間に合わなくて、それで今年の夏に書き上げて投稿しました。内容については、わたしの家庭事情を知っている人にはわかる内容になっています。うちの場合はわたしの実母が乳がんになりました。あと宗教についてのわたしの日頃から思っていることを主人公に語らせてみました。わたしの身内にも宗教にのめりこんでいる人がいて、母が病気になる以前はそれほど目立った活動をしていなかったのに、最近ではかなり積極的にわたしらを入信させようとしてるのがちょっと困りものなんですけどね。 さて、来年はどうなりますか。今のところ投稿原稿を書くつもりはないですね。もっとも、これが書きたいと思えるものが出てくればわからないですけれど。 2015年10月10日記
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