背景画像Copyright(C)自然いっぱいの素材集





「須永さーん、診察室の前でお待ちくださーい」
 看護師の明るい声が響き渡る。
 少し暗い待合室の椅子には年寄りが数人座っていた。
 須永と呼ばれた三十代の男はゆっくり立ち上がると静かに廊下を歩き、第一診察室と書かれたドアの前にある長椅子に座った。
 そこには七十代と思しき老人が背中を少し曲げて座っていた。
 すると、その老人は隣に誰かが座ったことに気づきうつむいていた顔をあげて、そちらに顔を向けて口を開いた。
「あんた初めてだね」
 老人の言葉に彼は曖昧な表情を浮かべると頷いた。
 だが、老人は構わず言葉を続ける。
「年取るといかんよ。身体が思うように動かん。わしは毎日近所を歩いてるが、それでもこうやって定期的に医者の世話になる。身体を動かさない年寄り連中はいざという時に動けんようなって、何かあった時にすぐには逃げられんのだ」
 その時、前のドアから人が出てきた。
 それもまた似たような年代の老人で、椅子に座っていた老人が声をかけた。
「谷中さん、今日はどうだったね」
「あかんわ。なかなかよくならん」
 声をかけられた谷中老人は首を振り振り待合室の方へと歩いていった。
 それを見送りながら彼は呟く。
「奴は去年車の運転中に心筋梗塞になってしまってな。傍らの電柱に衝突して停まったんだよ。幸い歩行者だの他の車だのを巻き込まなかったからまだよかった。奴自身もすぐに病院に運ばれたおかげで一命を取り留めた。だが、それ以来病院通いじゃ。難儀なことだ」
 と、その時、前のドアが横にスライドして看護師が顔を見せ「岡崎さん、診察室にお入りください」と言った。
 隣に座る老人が立ち上がり、「お先に」と言う。
 須永は軽く会釈をして老人を見送った。
(心筋梗塞か…)
 彼は苦々しそうに心で呟いた。
(紀子の命を奪った相手も心筋梗塞に見舞われ、この間亡くなったんだったな)
 須永紀子、彼と同い年の妻だった。
 彼らが結婚したのは今から十年前、すがすがしい秋の休日のことだった。
 結婚して二年目に子供が産まれ、今年十年目の結婚記念日に子供と三人で新婚旅行に行った土地に旅行を計画していた。
 だが、梅雨の時期、彼女は帰らぬ人となってしまった。
 その日はしとしとと雨が降る日で、歩道を歩いていた彼女は白い傘をさしていた。すると、前方から三十代の男性が自転車に乗って彼女に近づいてきた。彼もまた傘をさしていた。彼女と対照的な黒い傘だった。
(今思うと白黒で不吉な色だ)
 傘をさして自転車に乗っていた男は紀子に気づかなかった。急いでいたのか、けっこうなスピードが出ていて、そのままのスピードで彼女に突っ込んでいったのだ。
 ぶつかった衝撃で彼女は後ろに倒れこみ、頭を強く打ちつけてそのまま即死した。
 自転車の男も倒れはしたが、倒れ方が良かったのか擦り傷程度ですんだ。
 紀子も傘をさしていたのでちゃんと前を見ていなかったかもしれない。それはわからない。彼女はすでに亡くなっており、本当のことはわからない。ただ、当然、自転車の男性はお咎めなしとは言えない。自転車に傘をさして乗ってはいけなかったわけだから。
 しかし、それについては自分には相手を責める資格があるとは言えないのではないかとも思う。
 学生の頃、自分だけではない、ほとんどの学生が自転車には傘をさして乗っていた。
 もちろん、傘をさせない者もいた。そういう者は、はなから雨の日は自転車には乗らなかった。
 そう、傘をさして乗るという行為は片手運転ができるかどうかにかかっているからだ。そして、片手運転ができるということは、それなりに自転車を操る能力に長けているとも言えるのだ。なかには両手を離して自転車に乗ることのできる者もいたくらいだ。だから、個人的な思いとしては、自転車に傘をさして乗る行為は、それほど無茶な行為だとは思わない。問題があるとしたら、道路事情にあるだろう。八歳になる息子が、妻が死んでからポツリと言った言葉が忘れられない。
「歩く人と自転車、違う道を通れば悲しいことも起きないのにね」
 本当にそうだと頷いたものだった。
 そうなのだ。人と自転車、そして車が、完全に別離された専用の道路をそれぞれが通れば、一人相撲を別として、少なくとも対人の事故はなくなるはず。そういうことができれば、完璧に事故は防げるのだ。きっと。
 だが、今の日本ではすべての道路を改造することはできない。それをやろうとしたらとんでもない予算がかかることだろう。そうすれば百パーセント事故はなくせると誰でも思っていても、現実には荒唐無稽な話である。
 今ある街並みをすべて改造することでしか、このような夢の道路は建造できないことだろう。
 何もない状態の土地に作っていくというのなら、恐らくはできないこともないだろうが。
 たとえば、災害や戦争ですべてが焼き払われ、潰されてしまったという場所でなら、あるいは新しい街並みを作っていくことはできる。その過程で歩道、自転車道、車道を完全に分離して作っていくのだ。
 だが、実際に災害だの戦争だの起きてしまった場合、当然そういったことへの予算は割けないだろうから、それもまた夢のまた夢だ。
(しかし、やはり事故を完璧になくしたいというのなら、それくらいはしないとなあ)
 と、そんなことを思いふけりながら待っていたら、「須永さーん、診察室にお入りください」と呼ばれた。
 彼はゆっくり立ち上がると看護師が手を添えて待っているドアから室内へと入って行った。

「それで、今日はどこが悪かったんですかな」
 診察が終わって薬と会計を待っている間、待合室の椅子に座っていると、隣に座っていた先程の岡崎老人が須永に聞いてきた。
「風邪です」
「わしは脳梗塞やらかしてな。発見が早かったから酷い後遺症はなかったが、定期的にここの先生に診てもらっとる」
「はあ…」
「あんたも気をつけなされ。若いからといって無茶な生活はしないようにな。成人病…いや、生活習慣病とか言うとったな。そういうのから脳梗塞やら心筋梗塞やらに発展することもあるからのう」
「そ、そうですね。気をつけます」
 するとすぐに「岡崎さーん」と呼ぶ声がして、老人は受付にゆっくり歩いていった。
 その後ろ姿が妙に小さく暗く感じたのだが、受付の男性と大きな声で話す彼はとても元気そうで、須永は何となく奇妙な違和感のようなものを感じていた。
 それから彼も会計をすませ、病院を後にした。
 彼の住まいは病院から歩いて数分程度の場所にあり、もちろん病院まで歩いてやってきていた。といっても、車で来ることはない。もし車で来るとしたら、タクシーを使うことだろう。免許は人並みに持ってはいるが、車は持っていないからだ。もしどこかへ遠出をする場合はレンタルカーを使う。今の自分は車を持てる余裕はないからだ。幸いにも仕事は電車で通うことができるので、車がなくても不自由はしない。
 妻の病院代だの葬式代だので乏しい貯金はすべてなくなってしまったのだ。
 これからは、息子のためにこつこつお金を貯めていかなければならない。
 ただ、三人で計画していた仙台への旅行は行くつもりだった。息子と二人で。
 彼は歩きながら顔を上げた。
 空が高い。夏ももう終わりだ。秋がすぐそこまで来ている。
 そうなればあの場所へ再び行くのだ。息子と一緒に。
 浄土ヶ浜。もしかしたらそこで亡くなった妻に逢えるかもしれない。そんな気がする。
 そして、大変な参事に見舞われたかの土地だ。自分たちが新婚旅行で行った時とどれほど景観が変わってしまったのか、それはわからないが、少しでもあの土地にお金を落とすことができたらとも思う。
 もちろん、多少の募金はしたが、旅行などをすることもかの土地にとっては良いことではないだろうか。
 新婚旅行の時のことを思い出すと、思わず目が潤んできてしまうが、今度の旅も楽しい旅としたい。息子に良い思い出を残してやりたい。

「また逢いましたな」
 須永ははっとして頭を上げた。
 そこには岡崎老人の顔があった。
 ああ、そうだ。次の日、朝から少々具合が悪く、息子を小学校に送り出したあと、仕事をまた休んで病院に来たのだった。どうも熱があるようだ。
「風邪はこじらせるとやっかいだからのう。あんたも気をつけなさい。わしの友人の細君も風邪をこじらせ肺炎になって死んでしまった。風邪だからと甘く見ないことだ」
「はあ、そうですね。気をつけます」
 そんな時、須永が呼ばれた。今日は彼の方が診察が先だったようだ。
 彼は気難しそうな表情の老人に会釈をしてしんどそうに立ち上がった。
 それからしばらく後、彼は診察室の横の処置室で横たわり、点滴をすることになった。
 診察室と処置室はカーテンで仕切られているだけなので、隣に次の患者が入ってきて医者と患者の会話が聞き取れる。
 ということで、須永は次の患者、岡崎老人と医者の会話を聞くともなしに聞いていた。
「調子はどうですか。この間の検査の結果はそんなに悪くなかったですよ」
「先生、どうせ長くないんじゃろうが。あっさり苦しまずに死なせてくださいよ」
「岡崎さん、馬鹿なことを言わないで、ちゃんとお薬飲んでくださいね」
「わしが早く死ねば子供夫婦にも迷惑かからんでいい。そのほうがいいんじゃ」
 そんな後ろ向きな会話を子守唄に、いつの間にか彼は寝てしまった。
 起こしにきた看護師が「ずいぶんぐっすりと寝てましたね。お疲れなんですね」と笑顔を見せてくれた。
 自分に向けられる笑顔はいい。それだけで癒される。病気も吹っ飛んでしまうくらいだ。
 もっとも、彼は三十分程度寝入っていたので、気分が良くなったのもそのおかげだろう。ただ、看護師の笑顔も確かに精神的には良い作用を彼にもたらしたはずだ。
 それからずいぶんすっきりとした気分で待合室へ向かった。
「おや、まだいらしたんですか」
 待合室には岡崎老人が一人座っていた。
 須永は彼の横に座った。
 すると、突然彼は思い出した。そういえば、医者にずいぶんと後ろ向きなことを言っていたなあ、と。
 彼はそろっと隣の老人の表情をうかがった。心なしか気難しい表情が気弱な感じに見えないでもない。
「この時間にはいつも斉藤さんが来なさるんだが、今日はまだみたいなんじゃ」
 彼は玄関の方に目を向け、心配そうな声でそう言った。
 そんな老人を見ていたら、何だか自分まで不安な気持ちになってきた。
「きっと大丈夫ですよ。今日は何か他に用事ができたのかもしれませんよ」
「だといいんじゃが…」
 老人はしばらく玄関に目を向けていたが、ようやく諦めたのか、首をめぐらせて前を向き、しゃんと座りなおした。
 その様子はまるでこれから授業を受けようとする学生のようにも見えた。
(そうだ。こんな風に彼女を心配したことがあったな)
 彼と妻は同い年の幼馴染だった。子供の頃からの付き合いで、恋人として付き合うようになったのは高校生になってからだった。クラスも三年間同じだった。
 ある時、授業が始まっても彼女が登校して来なかった日があった。そして、今の岡崎老人のように彼女が今にも来るんじゃないかと教室のドアを心配で胸が潰れてしまいそうな気持ちで見つめていたことがあったのだ。その日は結局彼女は来なかった。後で家に行ったら、風邪で休んだとのことだった。その風邪も大したことはなく、彼女は退屈な寝床で読んだ本に浄土ヶ浜の事が書かれていたのだそうだ。その頃、彼女は大好きだった祖父を亡くし、もう一度祖父に逢いたいと思っていたのだそうだ。それで、浄土ヶ浜に行けば祖父に逢えるかもしれないと思ったらしい。それをずっと心に抱いて、後に結婚した時、新婚旅行は絶対にそこに行くと言い張ったのだ。正直、彼にはその気持ちがわからなかった。新婚旅行で行くとしたらハワイとかそこらへんだろう。それなのに国内旅行か。いや、それが悪いわけじゃない。北海道とか沖縄なら新婚旅行で行くのもわかるからだ。だが、やはり仙台とか浄土ヶ浜とかは違うだろうに、と。
 しかし、今はその時の彼女の気持ちが痛いほどわかる、と、彼は思った。
(浄土ヶ浜でなら、彼女にもう一度逢えるかもしれない)
 そんな一縷の望みを抱いて彼はかの地へ訪れようとしていたのだ。
「岡崎さん、病気になった時に奥さん心配されたでしょう」
 須永の言葉に岡崎老人は彼に顔を向けた。
「確かに生きとったら心配してくれたでしょうな」
 須永は「しまった」と思った。そうか、そういうこともありうるな。まだ、もしかしたら独身だったということもありうるわけだし。ただ、点滴している時の会話で、老人には子供がいるということはわかっていたので、奥さんももちろんいるだろうと思ったのだ。だが、死んでしまっていようとは考えつかなかった。
「すみません。なんか変なこと聞いてしまって」
「いやいや、かまわんよ。あれも病弱な女だったな。ずいぶん昔のことじゃ。子供がまだ小さい頃だった。小学生だったかな」
「そうなんですか……」
「あんたの奥さんは息災か」
「実は……」
 彼は正直に話した。妻が亡くなっていくらも経っていないこと、自分の子供も小学生であること、亡くなった経緯とかも。
 静かにそれを頷きながら聞き入る岡崎老人。
 待合室は静かだった。
 ふっと顔を受付に向けると、事務員が顔を下に向けて何かしている。だから、そう思うことは不思議だなと思ったが、なぜか、まるで今ここには自分と老人しかいないようなそんな気分に陥っていた。
「先生に死にたいと言ったんじゃよ」
 話し終えた須永に老人がポツリと言った。
「脳梗塞になる前、まだ元気だった頃にな、息子夫婦が一緒に住まないかと言ってくれたんじゃ。わしはまだ元気で、一人でやっていけると突っぱねた。今思うと、一緒に住めばよかったなと思うよ」
「まだ遅くないじゃないですか。今からでも一緒に住まれたらどうですか。病気をすると一人でいるのは怖いと思いますよ。何があるかわからないわけですし」
「そうじゃなあ。確かにそうじゃよなあ」
 岡崎老人は感慨深そうにそう言った。それから、まるで呟くように自分に言い聞かせるように続けた。
「あれが死んだ時はまだわしも若くて、死ぬことは怖かった。よく連れ合いに先立たれて後を追うようにとも言うが、わしはちっともそんな気になれずにいた。まあ、まだ小さい息子がいたから、その子のためにも何とか生きねばと気が張っていたからとも言える。後添いなんぞ考えたこともなかった。息子にとって母親は一人だったし、あの頃は息子のことしか考えられなかったからな。あの子のためにとがむしゃらに生きてきたのだった。息子が大きくなり結婚し、いい人と一緒になってくれてやっと肩の荷をおろしたような気になっていた、そんな矢先の病気だ。わしのこれまでとは何だったんだろうなとふと思ってしまった。不思議と後悔はなかったんじゃよ。こんな生き方もあるだろうなと思っただけじゃ。ただ、後添いをもらわなかったことは正しい選択だったんだろうかと、何となく思ったんじゃな。病気をした時に。一人じゃなかったら、こんなことにはならなかったかもしれない、と。もっとも、死ぬことは今じゃもう怖くないがね」
「そんなものなんでしょうか。僕にはわかりません。でも、今の僕も他の誰かとまた、とは思えませんね。もちろん、時が経つにつれてその気持ちが変わらないとは言えないんですが」
「年取っていくと死ぬことは怖くなくなると、子供の頃に父親に聞かされたことがある」
 老人は須永に答えてというよりは、自分自身に語りかけるように話を続けた。まるで、彼の言葉が聞こえていないかのように。
「わしが小学生の頃のことじゃった。母親が病でなくなり、続けて父方の祖父母も次々と亡くなった。母は天涯孤独な身の上だったから、わしには父方の祖父母が何よりも大切な家族だった。泣きじゃくるわしに父親は、人はいつか死ぬんだ、つらくても受け入れなくちゃならないんだ、あんまり悲しむと死んだ人が浮かばれない、笑えとは言わんが、静かにあの世に送ってやらんといけん、そう言っていた。だが、わしは死というものが怖くて怖くてしかたなかったんじゃ。母親が病で苦しんでいたのを目の当たりにしていたからのう。だから、怖がるわしに父親は辛抱良く諭してくれたもんじゃった。死は怖くないんだぞ。それだけは忘れるなよ、とな」
 須永は老人の言葉を心で繰り返した。
(死は怖くない、か。本当にそう思えるようになるんだろうか)
「なるとも」
 彼はびっくりして飛び上がりそうになった。隣に座る老人に心を読まれたかと思った。いや、違う、恐らく心で呟いたつもりが、口を突いて出てしまっていたのだろう。
「もっとも、死ぬ直前まではそうは思えない者もいるだろうがな」
 そう言うと老人は自嘲気味に笑った。
 その表情を見て、須永は遠い昔、そんな表情を見せた者がいたことを思い出した。懐かしい気持ちが胸に広がる。
「何だかあなたは僕の父に似ていると思います」
「あんたの父親にか」
「ええ。僕の父は僕が小学生の時に亡くなりました。自殺でした。心の病を患っていて、いつも自分自身を責めていたように思います。子供の頃には気づかなかったんですが、今のあなたの表情を見て父のことを思い出しました。ああ、父も死ぬのが怖かったんだなあって。それなのに、病気のせいでわけがわからないうちに死んでしまった。本当は父は死にたいわけじゃなかったんじゃないか、はずみだったんじゃないか、と」
「その通りだと思うよ。わしもそう思うよ」
 老人は妙に強く頷いた。それから、今ふと気がついたといったふうに聞いてきた。
「須永と言いなさったな。須永、何と言うんじゃ?」
「衛と言います。家族を守る男になってほしいと父がつけてくれたそうです」
「衛か、良い名前じゃ」
 老人は満面の笑みを見せた。気難しかった顔立ちが嘘のような笑顔だった。
「実は息子夫婦にももうすぐで子供が産まれるんじゃ。男か女かまだわからんが、健やかに育ってほしいと思っている。あんたのようないい名前がつけばいいと思っとるよ」
「そうなんですか。それはおめでたいですね。おじいちゃんになるんですね。だったら、なおさら息子さんと暮らしたほうがいいんじゃないですか。というか、お嫁さんは専業主婦なんでしょうか」
「まあ、働いとるな。パートだが」
「ほら、やっぱり一緒に住んでお孫さんを見てあげたらいいじゃないですか。感謝されますよ」
 彼の言葉に老人は寂しく微笑んだ。
「そういうもんじゃろか」
「そうですよ。確かに、嫁姑の問題とかありますけど、岡崎さんは姑でなく舅ですから、さほど問題もないと思いますし、何より、息子さんたちが一緒に暮らそうって言ってくれてるわけですからね。何も引け目に感じることはないですよ」
「そうかのう」
 岡崎老人は遠くを見つめるように視線を泳がせた。
「僕の場合は妻は専業主婦でしたが、これからは僕が一人で育てていかなければなりません。母ももう他界してますし、親戚もいません。妻の方も両親とももう亡くなっているし、親戚もいないわけではないのですが、絶縁状態だったんで、こんな時でも頼れません。実際、大変だと思いますよ。親しい身内でもいたら良かったのになあとつい思ってしまいますね」
 老人は黙ったまま真剣に聞いている。
「だから、余計なお世話だとは思うんですが、あなたには息子さん夫婦の力になってあげてほしいなあと思ってしまうんです。きっと、彼らには、あなたの存在が必要なんだって僕は思うんですよ」
「そうじゃのう。あんたの言う通りじゃ。わしは自分のことしか考えてなかったようじゃのう」
 老人は呟くようにそう言った。そして、さらにこう言った。
「あんたとはまた逢えるといいですな」
「そうですね。また逢えるといいですね。できれば病院じゃなく、別の場所で」

「先生、患者さんが目覚めました」
 誰かの声が遠くに聞こえる。女性の声のようだ。
 彼は目を開けたが、まるで霞がかかったようにあたりは白く煙っていて、よく見えない。
 それから彼はまた深い眠りに落ちていった。深く深く。まるで海の底に潜っていくように。深く深く。
 
 ずっと夢を見ているようだった。
 まるでひとつの人生を走馬灯のように垣間見た、そんな夢を。
 彼は石英の敷き詰められた砂浜に立って、エメラルドグリーンの海を眺めていた。
「衛さん、大丈夫?」
 振り返るとそこには愛する妻が立っていた。そして、その傍らには息子が心配そうに彼を見つめていた。
「ああ、大丈夫だよ」
 彼はそう言うとにっこり笑った。それから再び海へ視線を向け、言葉を続けた。
「ここはそんなに変わらないな。十年前に来た時とほとんど。とはいえ、あの震災の爪痕もまだ残っているようだが。それでもこの白い小石の砂浜はそのままだ」
 そんな彼にそっと近づいて寄り添う妻。ぎゅっと手を握ってくる。それにならって息子も反対側の手を握ってきた。
「あの時、新婚旅行でここを訪れた時、君は逢いたい人に逢えたのかな」
「そりゃもちろん、実際には逢えはしなかったわ。でもいいの。この美しい風景が見たかったんだもの」
「そうか」
「またこうやってあなたとここに来れてよかった」
「ぼくは?」
 大きな目をくりくりさせて息子は母と父を交互に見やる。
「もちろん、薫、お前も来れてよかったよ」
 衛は息子の頭を優しく撫ぜた。
「本当に親子三人ここに来れてよかった……」
 彼はそう呟いた。
(あれは何だったんだろう)
 はっきりと覚えているわけではない。
 だが、彼は覚えていた。
 老人と知り合ったこと、そして、彼といろいろ話したことを。ただ、話の内容はあまり覚えていない。死について話したことは何となく覚えているのだが。
 実際、事故に遭ったのは妻ではなく彼だったのだ。
 そして、意識不明に陥り、彼はずっと生死の境をさまよっていた。
(あれはリアルな夢だったんだろうか)
「こんにちは」
 その時、衛たちに声をかけてきたカップルがいた。
「親子でご旅行ですか」
 声をかけてきたのは女性のほうで、優しそうな笑顔を、特に薫に向けていた。照れているのか、薫は顔を赤くして紀子の陰に隠れてしまった。
「かわいいお子さんですね。私も男の子が欲しいわ」
 彼女はそう言うと自分のお腹をさすった。その行為から、恐らく彼女のお腹には新しい命が宿っているのだろう。
「もしかして新婚さんですか?」
 衛の妻、紀子が目を輝かせて聞いた。夫の衛は自分の妻の好奇心旺盛さに苦笑した。しかし、相手の女性はそんなぶしつけな彼女の言葉に嬉しそうに答える。
「嬉しいわ。まだ新婚に見えるなんて。結婚してもう二年になるんですよ」
「あら、そうだったの。でもお子さんはまだのようね」
「もうすぐ五ヶ月なんです。安定期に入ったから、前から来てみたかったここに、無理言って連れてきてもらったの」
「まあ、そうだったんですか。もしかして…誰か亡くされた?」
 いつのまにか、紀子と相手の女性は二人だけの世界で会話するようになっていき、何となくお互いの夫達はポツンと二人残されてしまった。衛の息子は紀子に手を引かれ、母ともう一人の女性との会話を一生懸命聞いているようだった。その姿は微笑ましい。
「ここはまるであの世の風景のように美しいですね」
 衛の横で男性がぽつりと言った。
「ここでなら、死んだ人と逢えそうな、そんな気がします」
 衛はしげしげと隣に立つ男を見つめる。
「初めてお逢いするのにこんなことを言うのも何ですが、最近、父親を亡くしましてね。母を早くに亡くした私でしたので、いつか父と一緒に暮らすことを願ってました。突然の死でした。私はショックで、しばらく何も手につかない状態になってしまって……そしたら、妻がここに来ようと言い出したんです。彼女なりの思いやりだったんでしょう。私の為にとはまったく言わずに、自分がどうしてもここに来たいから連れてってくれ、と」
「そうだったんですか」
 衛は不思議な気持ちになった。
 何だか、この男性が、あの夢の老人の息子のような気がしてしかたなかった。
(あれは夢だったのに…)
 彼は隣の男に「岡崎という老人を知っていませんか」と聞きたかったが、微かに首を振ると別の話をしだした。
「僕はつい最近、死にかけましてね。意識不明だった間、ずっと夢を見ていたようなんですよ」
 足元は白く、空はスカイブルー、そして海はエメラルドグリーン。言葉だけ並べみるとまるで南国の海のような感じだが、しかし、そこは南国とは言えない、柔らから世界が広がっていた。
 恐らく、人は死んだら、こんな場所を歩き続けるのではないかと思わせる、そんな風景。
 何もかもを浄化させてくれる、人と人の諍いも、不条理な出来事も、何もかも白く染め上げて、心が洗われていくのではないかと、そう思わせるものがここにはある。
「その夢はとてもリアルなもので、ある病院で知り合った老人といろいろ話すんですよ。脳梗塞で倒れたとその老人は言っていたのですが、息子さんが一緒に暮らそうと言ったのにそれを拒絶したことを後悔しているようでした」
「………」
 隣に立つ男性がこちらに顔を向けたのを目の端に捉えた。
「もうすぐ子供も産まれると言っていました。健やかに育ってほしいとも言っていましたね」
「そうですか…」
 心なしか彼の声に湿り気があるように感じた。
「父は気難しい性格で、何よりも不器用な人でした。子供である私に決して頼りたいとは思ってはくれませんでした。それは私が頼りないからだろうと私は思い込んでいたようです。もう少し、もう少しだけ長生きしてくれていれば、或いは素直に私と一緒に暮らしてくれたかもしれませんね」
 彼は涙を流しながら衛に顔を向けた。
「その夢の老人はどんな様子だったでしょうか。辛い思いをしてなかったでしょうか。痛い思いとか…」
 衛は首を振った。
「僕に、死ぬことは怖くなくなるよと言ってくれました。老人の父親が彼の子供の頃に、死ぬことは怖くないんだよと言い聞かせていたそうです。それがやっとわかったと言っていましたね」
 それを聞いて、青年ははっとしたようだった。恐らく、その話を彼も父親から聞いたことがあったのだろう。
「そうですか…そうだったんですか…」
「その夢に出てきた老人が最後にこう言ったんです」
 衛は続けた。
「また逢えるといいですな、と」
「また逢えると…」
「ええ、そうです。ですが、僕は病院じゃなくて別の場所で逢えたらいいですねと答えたんですよ」
「別の場所…」
「僕はあれが夢だったとはその時は思っていなくて、老人は近くに住んでいると思っていたので、近所でまた逢えればいいなと思ったんですよ。ところが夢だった。だから、あの老人とまた逢いたいと思ってもどこで逢えばいいのか今はわかりません。でも、ここでなら…」
 衛は辺りを見回した。誰かを探しているふうに。
 それにならって青年も辺りに視線を向けた。少し離れた場所に女性たちと子供がまだ楽しそうに話しているのに目が留まった。
「亡くなった父に、孫を抱かせてあげたかったな…」
 辛そうにそう言う青年に衛は「抱いてますよ」と言った。不思議そうな顔をする彼に目を細め、安心させるように頷いて見せる。
「お孫さんにはあなたの父親の血も流れているわけですよね。いつでもおじいちゃんはお孫さんの傍にいて、抱き締めているんですよ。今はまだお腹の中にいる小さな命であっても、それでもきっとあの人は優しく抱きしめて慈しんでいるはずです」
「………」
 そんな二人に互いの家族が近づいてくる。
 すると、衛の息子が自分の父が泣いているのを見つけた。そう、衛もまた話をしている最中になぜか涙が出てきてしまって、男二人、瞳を涙で濡らしていたのだ。
「あなた、大丈夫?」
「大丈夫だよ。この人からとてもいい話を聞いてたんだ」
「そう、それならいいんだけど」
 衛のほうには息子が近寄ってきて、心配そうに父を見上げた。
「おとーさん、またどっか痛いの?」
 衛は息子を抱き寄せながら「大丈夫だよ。痛くないよ」と答えた。
「おとーさんを泣かせるヤツはぼくがやっつけるからね。ぼく、大きくなったらとってもえらい人なるんだ。そうしたら、ぜんぶのどうろを作り変えるんだよ。もうだあれもじこなんかにあわないようにするんだ。ぜったいぜったいそうするんだ」
 その時、衛は視線を感じた。波際にあの老人が立っていて、こちらを見つめているように思えたからだ。
「あの…」
 すると、衛の腕をぎゅっと青年が握ってきた。
「あなたにも聞こえましたか?」
「ええ…」
 衛は答えた。
 だが、そこには誰もいなかった。が、彼らの耳にははっきりと聞こえていたのだ。
「ここでまた逢えるといいですな」と。
 男性二人は静かに頷いた。
 二人の目はすでに乾いていた。
 二人の妻は不思議そうに首を傾げたまま、互いに顔を見合わている。

 その後、彼らは何となく意気投合してしばらく行動を共にし、別れる時にこう約束した。
「ここでまた逢いましょう」と。




終わり


戻る

inserted by FC2 system