「春日が何か書いてるぞー」
「返して、返して……」
大柄な少年、池田和臣にすがりつくように嘆願する女の子がいた。
小学三年生であるのに、まだ幼稚園児のように小柄で幼い風貌。
白い肌が病弱めいて見え、腕も足も折れそうに細い。
色の薄い髪の毛は、ゆるいカーブを帯びて肩にかかり、なかなかの美少女ではある。
だが、そのあまりにも儚げな感じが、痛々しさを周囲に与え、クラスの中でも浮いた存在であったのだ。
彼女の名前は春日真由美。
三年一組出席番号十三番。
反対に、背丈も三年生にしてはすでに六年生並の池田和臣、出席番号三番。
色黒でキリリとした顔は整っているように見えるが、普段から恐い表情のために誰もが彼を恐れていた。
噂によると本物の六年生でさえも彼には一目置いているということだ。
そんな和臣と真由美は家が隣同士の幼馴染であった。
赤ん坊の頃から、互いの家を行き来していたのだが、三年生になってからは和臣はとんと春日家に寄りつかなくなってしまった。
しかし、それは真由美のほうもそうであった。
「なになに? あるところに男の子がいました。男の子のお母さんはずっと病気で、彼はそれをいつも悲しく思っていました………」
真由美から取り上げたノートをそこまで読んだ和臣は、次を読むことができなかった。
「やめてっ!」
彼女にしては強い口調であった。
和臣の手に持たれたノートを掴むと、力いっぱい引いた。
──ビリッ!
薄いノートである。
だから、彼女のような小さな女の子の力でも、たやすくとはいかないまでも破れてしまった。
「あっ!」
「………」
びっくりした和臣は手を離し、真由美ははっしとノートを抱え込んだ。
それから、そのまま彼女はそこにうずくまってしまった。
「はいはい、どうしたのかなー?」
そこへ、担任の田平桐江がやってきた。
彼女はうずくまる真由美を見つけると、すかさず駆け寄り、顔色をうかがった。
真由美は青い顔をしている。
「春日さん、またお腹が痛いの?」
「………」
真由美は首を縦に振って、言葉にならない返事をした。
桐江は、そっと自分の生徒を立ち上がらせると、心配そうな顔で立っていた和臣に告げた。
「あとで職員室にくるように」
「先生…和くん悪くないんです」
保健室のベッドに寝かされた真由美が、まだ顔を青くさせたまま言った。
「春日さん……」
「帰る用意もせずにいたあたしが悪いんです」
真由美は保健室の天井をじっと見詰めている。
事は授業が終わって、子供たちが帰る支度をしていたときに起こった。
担任は配り物を職員室に忘れてきてしまって、ちょっとの間教室から離れていたのだった。
「あたし、和くんの気持ちわかるんです」
真由美は破れてしまったノートを、かけられた布団の上でギュッと握り締めた。
ベッドのそばには窓があり、それは開け放たれていた。
カーテンを揺らし、外からは五月の風がそよそよと吹きこんできている。
昼間は暑くなるこの季節、まだまだ暑い時間ではあったが、風は不思議と冷たい。
「和くん、かわいそう……」
「………」
桐江は何も言えなかった。
真由美の言いたいことはわかったからだ。
彼女はそれには触れずに、破れたノートに話題を振った。
「そのノートがケンカの原因?」
「…………」
真由美の青ざめた顔にほんの少しだけ赤味が戻った。
ノートをさらに握り締めると、恥ずかしそうにもじもじと身をよじる。
「何が書いてあるのかしら。先生にも内緒?」
「ううん。キリエ先生なら話してもいい」
桐江はにっこり微笑んだ。
あるところに男の子がいました。
男の子のお母さんはずっと病気で、彼はそれをいつも悲しく思っていました。
お母さんはとてもお話を作るのがじょうずで、男の子が赤ちゃんのころから、自分で作ったお話を子守り歌のように聞かせていました。
そのお話は「雲の王国」と言うんだそうです。
いつも寝たきりのお母さんは、ベッドから窓の外に見える空や雲をいつも見ていました。
それでできたお話です。
『むかしむかし、身体の弱い男の子がいて、その子はベッドの上からいつも窓の外を見ていました。
男の子の名前はミツル。
ミツルは毎日毎日変る雲の姿がとても大好きで、いつかあの雲の上に乗れたらいいなーと思っていました。
あるとき、その雲が不思議な形に見えました。
夕焼けで赤くなった空に雲がかかっています。
すると、雲が線を引いたように空をふたつに分けていたのです。
上は赤くなった空で下は雲。
その雲は夕焼けのためにちょっとだけピンク色をしていました。
男の子は、前にお母さんに聞いた話を思い出しました。
空があんなふうに二つに分かれたように見えるときは、雲の上に夢のように美しい王国と金色に輝くお城が現れると。
そして、強く強く願えばそこに住むことができると。
ミツルはじっと見つめました。
目が痛くなるほど雲の上を見つめました。
すると不思議なことにキラキラとしたお城が見えてきたのです。
ミツルはもっともっと願いました。
こんなオンボロな身体はもういやだ。
あの雲の上のお城に行って、ずーっと元気に暮らしたい。
そして、ミツルのお母さんが部屋にきたときに、ミツルはベッドの上にいませんでした。
お母さんは不思議に思いましたが、どこからかミツルの元気で楽しそうな声が聞こえてきたので、嬉しくなったのでした。』
だから、もしお母さんがこのベッドからいなくなっていても、お母さんはあの雲の上のお城でずっと元気で幸せに暮らしているから、悲しまないでねと、悲しむ男の子にお母さんは言いました。
「…………」
桐江は言葉を失った。
これが小学三年生の子が作ったお話なのか?
なんと独創性に満ちた話なのだろう。
この子は将来きっと作家になるに違いない。
そう桐江は確信した。
「あたしね、先生」
「…………」
すっかり顔色も良くなった真由美が言葉を続ける。
「和くんのお母さんも、あの雲の上のお城にいると思うの。雲の上の王国で、幸せに暮らしているんだと思うの。あたしのおばあちゃんも、去年までうちにいた犬のポチも、みんなみんなあの雲の王国で暮らしているんだわ」
「…………」
やはり、言葉が出てこない桐江であった。
池田和臣の母親は、長年の患いの末に去年の秋亡くなったばかりだった。
それまでは、身体は大きいが心優しく乱暴なことはしない少年だったのだが、今年になってから、情緒が不安定で、すぐにカッとなり乱暴なことをしたり言ったりするようになったのだ。
それを幼馴染の真由美はいつも見ていて、小さな心を痛めていたのだろう。
いつも優しい言葉をかけてくれていたお隣のおばさんが、あるときこの世からいなくなってしまったのだ。
真由美だって和臣に負けないくらいにショックを受けているだろうに。
桐江は胸が痛んだ。
「先生……あたし、キリエ先生も大好き。おばさんやうちのお母さんと同じくらい好きよ。だから、だから……いなくならないでね」
「春日さん……」
桐江は思わず真由美の手を握り締めた。
彼女の手はまるで赤ん坊の手のようだと桐江は思った。
真由美は始終お腹が痛いと訴える子供だった。
桐江は、それを神経性のものだと見ていた。
養護教諭もそう判断していた。
この年頃の子供、とくに最近の子供たちはストレスが異常に多く、すぐに体調を崩す者も少なくない。
現代病とでも言うべきものであるが、それに対して、心理学者や知識人たちが様々な理論を語っても、決定的な解決策というものは無きに等しかった。
世界は怒涛の勢いで変っていく。
まるで崖の上から流れ落ちる滝のように。
だからといって、人間は急激に変わっていく世界に対してすぐに変われるものでもない。
だが、少しづつそういう世の中に対抗するべく、身体も精神も変容していくものだ。
そういう過渡期に今はあるのだ。
だからこそ、人々は、生きていくことに疲れを感じやすくなっているのだ。
そして、大人たちでさえも変化に堪えられず、ストレスから自殺してしまったりするのだから、子供たちの苦しみは幾ばくか想像に難くない。
強い者はまだいい。
以前の単純な世界を引きずっていても、自分の信念を貫き通すことができる。
だが、心弱き者はどうすることもできずに、結局その弱き精神で身体を壊していくのだ。
そして、それは本人が十分理解している場合が多く、理解しているがために、さらに己を追い詰めてしまう。
そんな子供たちは自滅してしまうか、あるいは、それでも絶望的な状況でも、生き続けようと必死に何かにすがりつこうとする。
真由美は、そういう必死に生きようとしている心優しき子供だった。
彼女がすがりついたもの。
それは物語ることだった。
己の心、身体、生きるためにはあまりに弱々しいそれらを、彼女はとても悲しく辛く思っている。
だが、彼女はそれでもこの世界で生き続けたいと思っているのだ。
その証拠に真由美は物語を書き続けている。
夢があり、そして、心にポッと温かいものを残す、そんな優しい物語を書き続け、それをいつか大好きな人たちに読んでもらいたいと思っている。
「先生、あたしの書いたものが、いろんな人に読んでもらえる日が来るかなあ」
手を握られたまま、真由美は言った。
視線は桐江に向けられている。
真剣な眼差しが、桐江の心をぎゅっと掴んだ。
「春日さんは大きくなったら何になりたいの?」
「本を書く人」
「そう」
「なれると思う?」
心配そうに揺れる瞳。
桐江は安心させるように大きく頷いた。
「なれるわよ」
「ほんとに?」
「ええ、ほんとよ」
そして、桐江は真由美のお腹を布団の上からゆっくり撫ぜながら、
「春日さん、忘れないでね。自分がこうなりたい、ああなりたいって思ってることは、強く願えば願うほどきっと叶うものだって」
「雲の王国に住めるみたいに?」
「ええ、そう、そうよ」
真由美の顔が輝いた。
その表情は、まるで、彼女の作り出した話に出てくる黄金に輝く城のようだった。
「春日さんが、たくさんの人に自分の物語を読んでもらいたいって思ってれば、きっと春日さんは自分の書いたものをいろんな人に読んでもらおうとするはずよ。人ってね、願えば願うほど、それが強ければ強いほど、どうにかしたいって絶対思うものなの。そして、動き出せば道は開けるものなのよ」
「動き出せば道は開ける……」
真由美は繰り返し呟いた。
まるで大切な呪文を教えてもらったかのように。
桐江の言葉が、真由美の小さな心に深く深く刻み込まれた。
願うこと。
強く強く願うこと。
強く強く願えば、人とは必ず行動を起こすもの。
真由美は知る由もなかっただろうが、世界には奇跡というものが存在していて、強く願うことで絶対に治らないといわれている病気が治ったり、あまりにも不思議な偶然が起きてしまったりすることを。
だが、くしくも彼女が作り出した物語は、まさに奇跡の物語であった。
彼女はこのとき、あまりにも幼すぎて、世界のことなど知らなさ過ぎて、自分の書いたものと奇跡というものが、同じものだということに気づいていなかった。
ただ、大好きな先生に言われるがまま、その言葉をその小さな胸いっぱいに受けとめようとしていた。
子供時代に、いかに教師というものが、周りに存在する大人たちが大事なものか、それを人々は本当に真剣に考えているのだろうか。
少なくとも、真由美の周りには彼女を理解している教師がいる。それは大変真由美にとって幸いなことであったが、たとえ理解できないとしても、理解しようとするその心は、必ず子供に伝わるだろう。
忘れるなかれ、大人たちよ。
理解できないのに理解したような顔をするのは偽善である。それは、唾棄すべきものだ。
正直な心で子供に接し、そして、手探りでもかまわないから、失敗してもかまわないから、子供と真剣に生きていくべきだ。
大人も子供と同じように強く願えばいい。
強く願って、信念を貫き通せば、必ず何かを変えることができる。
必ず。
それを言った桐江自身も、それから、それを聞いた真由美も、それぞれが己の心にその言葉を刻みつけた。
強く願えば願いは叶うもの───と。
それからすぐに田平桐江は発病した。
乳ガンだった。
夏も終わりに近づいたある日、真由美は和臣と一緒に病院を訪れた。
「和くん、ごめんね、つき合わせて」
「別に…俺が来たいから来ただけじゃん」
和臣は恥ずかしそうにプイッと顔をそらした。
病院の廊下を二人で歩きながら、真由美は言った。
「キリエ先生、死んじゃわないかな」
「………」
「雲の上のお城に行っちゃわないかな」
「………」
「あたし……でも……こわい……」
「真由美……」
「あ」
「え?」
泣き笑いの顔で真由美は和臣を見つめた。
「和くん、やっとあたしのこと真由美ってゆってくれた」
「…ったく、ばかなこと言ってんじゃねーよ」
それでも、真由美の心は完全に晴れることはなかった。
先生。
大好きなキリエ先生。
あたしの「雲の王国」を笑わずに聞いてくれた先生。
死なないで。
雲の王国になんて行かないで。
ずっと、あたしや和くんが卒業するまでずっと先生でいて。
ううん。
卒業してからも、あたしたちが大人になっても生きて先生でいて。
あたし、強く強く願うから。
きっと、先生が死なないであたしたちのもとに帰って来てくれるって信じるから。
だから死なないで!
「あ…」
和臣の声に真由美は顔を上げた。
彼は廊下にある窓の外を見つめていた。
空が見える。
彼女の目に飛び込んできたのは───
空を真っ二つに割る雲だった。
真由美の書いた物語のように、一直線に雲が空の半分を隠していた。
「先生……」
真由美は静かに涙を流した。
それから長い年月が過ぎ。
真由美は大人になった。
彼女は五月の新緑の日に、同窓会に出かけるため、今タクシーで会場についたところだった。
市内の某ホテル。
その玄関で、彼女はかつての同級生たちに出会った。
「真由美、わー、おめでとー。あんた新人賞とったんだって?」
「ありがとう」
「旦那はどうしたのよ、和臣くんは」
「ああ、あの人は仕事を片付けてからあとでくるって」
みんな、まだ二十代前半。
若さに満ち満ちているといった感じである。
真由美は、眩しそうに彼女たちを見つめ、何かを思い出しように目を細めた。
「あ、きれー」
一人が空を見上げて指差した。
「あ…」
雲の王国───
そこには懐かしい情景が広がっていた。
空を真っ二つに割る雲。
まるで空に地平線ができたようなその風景。
──春日さん……
真由美の耳に響くその声。
五月の風のようにさわやかな微笑のその顔を、真由美はいつまでも忘れないと思った。
彼女は肩にかけていたバッグから、そっと一冊の本を取り出した。
それは、夕焼け空を真っ二つにした雲の上に、黄金のお城が描かれている表紙の本だった。
題名は「雲の王国」で、帯には新人賞作品、期待の童話作家と書かれてある。
そのとき、彼女の目に何かが映った。
それに気づいた真由美は、本を振りまわしながら走り出した。
彼女が一番尊敬し、一番好きな人、田平桐江先生に向かって。
──2002年6月25日記──