パッヘルベルの「カノン」を聴く
死を生きる 第1章
『死』は、いつも僕とともにあった。
初めて『死』というものを身近に感じたのは、少年時代のこと。
ある日、塾からの帰り道で車にぶつかって怪我をしたツバメを拾って帰った。
まだ純真な心を持った僕は、かいがいしく世話をすれば絶対助かる、と信じていた。
ツバメはいったい何を食べるのか辞典で調べ、次の日には庭で虫を取ってきて割り箸で口まで持っていってやった。
本当に食べるのか、ドキドキしながら待った。
すると、小さなくちばしを弱々しく開けて食べてくれた!
感動して涙が出た。
だから絶対元気になるって、食べてくれたから大丈夫って確信したのに……
でもツバメは修学旅行に行く朝に死んでしまった。
ツバメは動かなかった。
触ってみた。
トクトク心臓が動いていたんだ、昨日までは。
冷たかった、まるで標本みたいになってしまったツバメ。
あまりのショックに涙も出なかった。
あんなに信じてたのに。
なぜこんな事に───
僕はツバメを庭の片隅に埋めてやった。
そして、その盛り上がった土に手を合わせた。
たったの二日間だったけれど『スズメ』という名前をつけてかわいがったツバメに別れを告げたのだ。
「何もしてあげられなかった僕を許して。助けてあげたかったのに、助けられなかった僕を堪忍して」
人は、出来ることをしてあげたんだから、それでいいじゃないかって言う。
だけどそうだろうか。
果してツバメは僕に感謝してくれてたのだろうか。
車にぶつかったらしく、ツバメは道路の脇のどぶ川に落ちていた。
たまたまそこに僕が通りかかった。
普通ならそのまま通り過ぎただろう。
だけど僕はなぜか足が止まってしまったんだ。
そしていつの間にか、泥だらけになったそのツバメを拾い上げていた。
理由なんてわからない。
ただのかっこツケだったかもしれない。
でも、助けてあげたいという気持ちに嘘はなかった。
当時はまだ子供だったので、病院に連れていくまで考えが及ばなかった。
あるいは、そうしてればきっと元気になっていたかもしれない。
なんて僕は幼かったのだろう。
そのために彼は死んでしまった。
それなのに僕は一滴の涙も流れなかったのだ。
でも無理もない。
その時はまだ実感が湧かず、そのために涙も出てこなかったのだ。
すべては、修学旅行から帰ってきてからのことだった。
旅行は楽しかった。
最初のころこそ『スズメ』のことが気になってはいたのだけれど、いつしか忘れてしまって友達同士ワイノワイノと騒いでいた。
そして、大いに笑いながら家に帰ってきて部屋に入ったら、『スズメ』の寝ていたお菓子箱が一番最初に目に入ったのだ。
僕はいっぺんに、まるで酔いが醒めたように心が冷たくなった。
すると───涙がスーッと頬をつたい落ちてきたんだ。
それが始まりだった。
涙が後から後から溢れてきて、止まらなくなってしまったのだ。
それが、最初に出会った『死』だった。
次は、高校生の時。
古典の江戸川という先生が球技大会の時、突然倒れてそのまま帰らぬ人となってしまった。
まだ五十代という若さでだ。
それを目撃したわけではないから、すぐには信じられなかった。
僕たちはけっこう仲良しで、よく冗談なんか言って笑い合っていたのに───
大会の次の日、朝礼で担任の先生からその訃報を知らされた。
「皆も知っていると思うが、江戸川先生が昨日亡くなった」
「うわぁ───!!」
僕の斜め後ろの女生徒が机に突っ伏して泣きだした。
彼女の泣き声は派手だったが、気持ちはわからなくもなかった。
ただ、僕は男だからね。
本当は涙もろいんだけど、人前で泣くわけにはいかなかったんだ。
それに実感もわかなかったし───
そんなことで昔はまだ良かった。
自分が若いっていうことで、悲しくても辛くても人ごとのように感じられたから。
だけど今は違う。
この世で一番大切な人を永遠に失ったから。
そう、永遠にだ。
もう二度と彼女には逢うことは出来ないんだ。
僕は彼女との約束のため今、この空港に来ていた。
滑走路が良く見える自動車道のパーキングエリアに車を停め、沈み行く夕陽を浴びながら遠くに消えていこうとしている飛行機を見つめていた。
星空になるまでまだだいぶ時間がある。
それまで在りし日の彼女を心に刻むため、彼女と過ごした日々を思い出してみよう。
彼女の名前は、松下由美。
中学、高校と同じで、交際を始めたのは高校の二年からだった。
「ね、正人君。もし、もしもよ。私が死んだらどうする?」
ある晴れた日、ぽかぽかと暖かい陽射しのなかで僕の顔を覗き込んだ彼女。
小さくて、僕の掌に包み込んでしまえるようなかわいらしい顔。
ぽちゃっとしたふくよかな唇。
ふさふさ、ふわふわとした茶色い髪の毛。
僕の天使、僕だけの宝物。
僕はしばらくの間、愛しい由美をじっと見つめていた。
「ねえ、聞いてるの? 正人君」
痺れを切らして彼女が僕の腕をつかんだ。
「え、何?」
「やーね、正人君ったら。聞いてなかったの?」
呆れた顔の彼女もかわいい。
少し口を尖らせている。
「ごめん、ごめん」
「もお、しょうがないなあ。あのね、もし私が死んじゃったりしたらどうするって聞いたの」
「とんでもない!」
一体全体、何馬鹿なこと言ってるんだ。
そんなこと神様がお許しになるはずがないじゃないか。
世界中の誰が死んだって由美は死なない、死ぬはずがない。
「縁起でもないこと言わないでくれよ」
僕がこんなに心配してるって言うのに、急に彼女はコロコロ笑いだした。
「いやだわ、そんなに真面目にならないでよ。もしもよ、もしも。ね、どうする?」
僕はそんなこと考えたくもなかったけど、彼女の期待に満ちた目を見たら答えないわけにはいかなくなった。
「そんなこと決まってるだろ。後追い自殺をする。もしくは一生誰も愛さない」
僕はそれこそ真摯な眼差しで彼女をじっと見つめた。
どうやら僕の答えは彼女の心にかなったらしい。
顔の表情が、ぱっと明るくなったからだ。
しかし、彼女の口からは意外な言葉が出てきた。
「そう言ってくれてとても嬉しいわ。でもね正人君、私、永遠というものを信じてないの。人の心も同じこと。あなたが今言ってくれた言葉も、今現在のあなたにとって真実でしょうけど、絶対に不変のものだという保証はないわけよね。人の姿形が年とともにどんどん変わっていくように、人の心も変わっていくものなのよ。だからこそ逆に、私は永遠というものに憧れるんだわ」
時々、彼女はよくわからないことを言う。
『永遠』を信じてないって言うくせに、それに憧れてるって言ってみたりする。
それに───
「ね、正人君。人は死んだらどうなるのかなあ。本に書いてあるようにあの世っていうものがあって、いいことした人は天国に行って、悪いことした人は地獄に行くことになるのかしら。それともまったくの無になってしまって、肉体と一緒に意識や心も無くなってしまうのかしらね」
僕たちは、公園のベンチに座っていた。
彼女は、僕の隣で膝に両手をのせ、まるで伸びをするみたいに身体を反らせて青い空を見上げた。
日曜日の午後───
僕は辺りを見回した。
芝生で戯れる子供たち、僕たちのような若いカップル、犬を走らせ、自分もその後を走る中年の男性、ベビーカーに赤ちゃんを乗せた母親。まるで平和を絵に書いたような風景だ。由美にはこの風景が見えてないのだろうか───
『死』なんて───僕たちはまだこんなに若いのに。
彼女は僕といても幸せじゃないんだろうか。
そういえば、この頃元気がなかったような気がする。
「由美、何か悩み事でもあるのか?」
僕の言葉に、彼女は力なく微笑んだ。
「正人君には隠せないね」
彼女の目からポロリと一粒、涙が落ちた。
僕は途端に慌てた。そんな───泣かせるつもりじゃなかったのに。
「ごめん、何か悪いこと言った?」
必死になってなだめようとする僕に、彼女は首を振った。
涙をふいて、ニッコリ笑ってみせてくれる。
そんな仕種がたまらなく可愛くて、思わず抱き締めたくなってしまう。
「ごめんなさいね、心配かけて。泣いたってどうにもなるもんじゃないのに」
彼女は、スンッと鼻を鳴らした。
そして僕を振り返った。
「私の叔母さんが入院してるの」
そう言うと、いったん口を閉じた。
まるで恐ろしいことでも打ち明けようとするみたいに───
「もう長くないの。癌なんですって」
か細い声で震えてる。
可哀想に!
彼女の辛い心が僕の胸に突き刺さるようだ。
彼女がどんなに叔母さんが大好きか、僕はよく知っているから。
今の自分があるのは、叔母さんのおかげだと、いつも彼女は口癖のように言っていた。
彼女が幼い頃から、誕生日に素敵な絵本やら小説などを叔母さんはプレゼントしてくれたそうだ。
そのおかげで本大好き人間に育って、近頃では自分でもちょこちょこ物語を書いてるらしい。
彼女はいつもこう言っていた。
「アンネの日記と十五少年漂流記は、私にとって人生のバイブルよ」
僕も本は嫌いではないけれど、ここまで入れ込むほどではない。
ドキュメンタリーならともかく、しょせん作り物の世界ではないか───ああ、アンネの日記は違うかな。
だけどやっぱり人は人、自分は自分で、本だけが僕のすべてではないから───
あ、それよりも、その彼女の大好きな叔母さんが大変だったんだ。
「そうだったんだ。それは辛いね。そんなに悪いの?」
彼女はうつむいた。
「あと三ヵ月もつかどうか、わからないんだって」
「そんなに・・・」
僕は絶句した。
惨いことだ。確かまだ四十代半ばじゃなかったっけ。
それに小学生と中学生の子供さんがいたはずだ。
「これからお見舞いに行こうと思うんだけど、ついてきてくれる? 一人で叔母さんに会うのが辛いの」
僕はもちろん頷いた。
そうしないではいられなかったのだ。
病院の待合室には人がいっぱいいた。
しかもそのほとんどが老人だった。
知り合いなのかそうでないのかわからないが、隣の人と楽しそうに喋っている。
退屈はしてないみたいだ。
彼らはそうやって長い一日を過ごしているんだなあ。
そんな待合室を通り抜けながら僕たちは病室棟に向かっていた。
「あんな風に年は取りたくない、私」
彼女の声色は、軽蔑というよりは哀しみに満ちていた。
そうは言っても、全ての人間は必ず年を取るものだし、年を取ったらやっぱりあんな風になってしまうんじゃないかな。
「じゃあ、由美はどんな風に年を取りたいんだい?」
「私は、出来ることならこのままでいたいわ。今のまま、ずっと若いままでいたい」
それは彼女に限らず、誰でも願っていることだ。
だけど一人残らず全て、と言うわけではあるまい。
少なくとも僕は『生』というものにさほど執着がないから。
ただ、痛いことはとても苦手だから自分自身をこの世から消す、という行為はできないだろうな。
「そうじゃなくて理想の老人はどんなかってことだよ」
彼女は歩きながらも、ちょっと小首を傾げて考えてるみたいだった。
「そうねえ……もし年を取るなら自分が興味を持てるものに打ち込みたいわね。こんな辛気臭いとこでしゃべくるだけなんて、まっぴらだわ」
彼女は今来た場所をチラッと振り返った。
うん、まあその気持ちはわからないでもないな。
まだ具体的に何をやりたいのかわからないけど、僕も何か好きなことに打ち込みたい。
そんな風に話しながら、僕たちは消毒薬の匂いの漂う廊下を歩いていった。